文学は、何を書くかを嗅ぎ当てる能力から始まる
文章がうまい人はたくさんいる。
比喩が美しい人。
構成が巧みな人。
難しい思想を整理して書ける人。
読者を泣かせる技術を持つ人。
けれど、本当に少ないのは、
まだ作品になっていないものの中から、作品になる核を嗅ぎ当てる人だ。
又吉直樹や最果タヒを見ていると、いつもそこに驚かされる。
彼らは、特別な事件を探しているわけではない。
大げさな悲劇を持ち込むわけでもない。
生活のなかにある、誰でも見ているものを拾う。
返事が来ない時間。
コンビニの明かり。
帰り道の沈黙。
誰かと話したあと、なぜか残る小さな違和感。
何でもない日常のなかに、説明されないまま沈んでいる孤独。
普通の人なら、そのまま通り過ぎる。
あるいは「よくあること」として忘れる。
でも彼らは、その場所で立ち止まる。
ここに人間がいる。
ここに時代がある。
ここに、まだ名前を与えられていない痛みがある。
そう嗅ぎ取る。
しかも、そのために過剰な文体を必要としない。
日常を文学に変えるのではなく、日常が文学だったことを発見する
村上春樹のように、独自の文体で現実を別世界へ連れていく作家がいる。
大江健三郎のように、巨大な比喩と思考の密度によって世界を組み替える作家もいる。
又吉や最果タヒは、少し違う。
彼らは日常を文学に変えるのではない。
日常が最初から文学だったことを、発見する。
その差は大きい。
何かを飾るのではない。
何かを発明するのでもない。
すでにそこにあったものを、「これはただの出来事ではない」と見抜く。
詩人や小説家にとって、これは技術以前の能力だと思う。
ボブ・ディランが嗅ぎ当てた、時代の怒り
たとえばボブ・ディランもそうだった。
彼が見つけたのは、単なる反戦の主張ではない。
社会の底に溜まっていた怒り、屈辱、権力への不信、若者がまだ言葉にできていなかった不満だった。
人々が薄々感じている。
しかし、まだ歌になっていない。
そこへ先に行って、歌として持ち帰る。
だからディランの歌は政治的な標語ではなく、時代そのものの声になる。
又吉や最果タヒが嗅ぎ当てるのは、もっと小さな場所にある。
社会運動の前夜ではなく、ひとりの部屋。
歴史の転換点ではなく、既読のつかない画面。
革命ではなく、帰り道に急に胸を刺す空白。
しかし、その小さな場所にも、時代は沈んでいる。
むしろ現代では、そこにしか現れない感情がある。
だから彼らの才能は、単に「若者に人気がある」とか、「言葉が現代的だ」といった話では終わらない。
彼らは、今の人間が生きている場所の感情を、誰より早く嗅ぎ当てている。
編集者は才能を作れないが、才能を巨大な作品へ育てられる
本当に優れた編集者がつく意味も、ここで見えてくる。
編集者は才能そのものを作れない。
何を嗅ぎ当てるべきかを、代わりに見つけることもできない。
しかし、その嗅覚を持つ作家に、
もっと長い時間を与えることはできる。
もっと大きな構造を与えることはできる。
一瞬の感覚を、世界文学級の長い作品へ育てることはできる。
削るべきところを削り、
残すべき沈黙を残し、
本人が見つけた小さな核を、時代全体へ届く形にする。
文章の技術は、後から磨ける。
構成も学べる。
比喩も増やせる。
しかし、
何でもない景色の中に、まだ誰も触れていない悲しみや幸福を見つける鼻は、後から作れない。
それは才能というより、ほとんど生き物としての感覚器官だ。
又吉直樹や最果タヒが持っているのは、その怪物じみた嗅覚なのだと思う。