縄文日本と古代西アジア・ギリシャ――二つの生活世界から生まれた二つの知
西洋思想には、現実の個々の出来事よりも、それらを成立させる普遍的な原理、法則、形式を上位に置こうとする傾向が繰り返し現れる。プラトンのイデア論はその典型であり、後世のキリスト教神学でも、世界に先立つ神とその秩序という構図が形成された。さらに近代科学においても、観測される多数の現象を少数の普遍法則から導こうとする。このため西洋思想を、「先に原理があり、われわれが経験する現実はその具体的な現れである」という方向を持つ思想として捉えることには一定の妥当性がある。
しかし、これを単純に「キリスト教の影響」「ヘブライ的宗教観の影響」と説明するだけでは、問題の始点と終点を取り違える。宗教や哲学そのものも、人間が長期の生活経験のなかで形成した歴史的産物だからである。なぜそのような宗教が成立したのか、なぜそのような哲学に説得力を感じる社会が生まれたのか。その前に、人々はどのような場所で暮らし、どのような人間関係を作り、どのような問題を毎日のように解いていたのか。日本についても同じである。「八百万の神という思想があるから日本人は多元的に考える」と説明するだけでは不十分である。『古事記』が成立したのは八世紀であり、日本列島ではそのはるか以前から人々が生活していた。古事記的世界観は原因である以前に、それ以前の何千年もの生活、祭祀、社会関係が沈殿した結果である可能性を考える必要がある。
縄文一万年の生活世界
縄文文化はおおむね一万年以上にわたり日本列島に存続した。縄文人は一般に定住性の高い狩猟採集民であり、海産資源と陸上資源、植物、動物など、多様な季節性資源を組み合わせて利用していたことが考古学や人骨の安定同位体分析から知られている。しかも重要なのは、日本列島では山地が海岸近くまで迫る地域が多く、海、川、湿地、平野、丘陵、森林、山地といった異質な生態環境が比較的短い距離に並んでいることである。同じ集落の同じ人間が、朝には海で魚介を採り、別の時間には山で植物や木の実を採り、川沿いでは水辺の資源を利用する、といった生活が可能だった地域も少なくなかった。
この特徴は単に「日本は自然が豊かだった」というだけではない。一人の人間が日常的に複数の異なる生態圏を横断するということである。しかも四季があるため、同じ山、川、海であっても季節によって利用できる資源も危険も変わる。つまり縄文的生活世界では、空間的多様性と時間的多様性が同時に大きかった。そこでは「世界全体に適用できる一つの原理」を知ること以上に、「いま自分がいる場所と季節と対象を見極め、それぞれに適した知識へ切り替えること」が生活上重要だったと考えられる。
海には海の読み方があり、山には山の読み方がある。川の状態も季節によって変わり、植物にも動物にも固有の周期がある。さらに、それらは互いに代替できない。太陽は必要だが、雨がなければ植物は育たない。雨だけでも困る。川は恵みをもたらすが洪水も起こす。海は食料をもたらすが嵐も起こす。したがって、生活世界そのものが「一つの最高原理がすべてを支配する」という構造よりも、「複数の異なる力が、それぞれ別の局面で不可欠である」という構造を持っていた。
ここから先は直接証明された事実ではなく仮説である。しかし、このような生活が何百世代にもわたって反復されたなら、一つの原理ですべてを説明する認知よりも、複数の文脈を読み分け、その都度最適な知識へ切り替える認知が文化的に強化された可能性がある。後世の日本文化に見られる「生成」「移ろい」「関係」「場」「時」「状況」といったものへの感受性を考える際、これはかなり深い基層になりうる。
八百万的世界観は原因ではなく結果ではないか
この観点から見ると、八百万の神という世界観も別の見え方をする。縄文人がすでに「八百万の神」という明示的な思想を持っていたと証明することはできない。文字資料が存在しない以上、そのような断定は避けるべきである。しかし、多様な自然環境を利用し、場所ごと季節ごとに異なる力と付き合い、それらのいずれも完全には他に還元できないという生活経験が長く続いたなら、自然や生活の各領域にそれぞれ異なる力や霊性を認める世界観が成立することは不自然ではない。
したがって、「八百万の神があったから日本人は多元的に考える」のではなく、「多元的な自然環境と生活実践がまずあり、それが多元的な祭祀や神観を育て、その結果として後世に八百万的世界観が言語化された」と考える方が因果の順序として自然である。『古事記』に現れる、神々自身が「成る」「生まれる」「現れる」という表現も、古事記そのものを原因として使うのではなく、それ以前の長い生活世界から形成された生成的な世界認識が八世紀の神話編纂にも残った可能性を示す資料として読むべきだろう。
ここでは太陽すら絶対的な唯一原理にはなりにくい。太陽は海でも山でも平地でも共通して見えるため、広域的な象徴にはなりうる。しかし日照だけでは生存できない。雨、水、土、海、川、植物、風なども不可欠である。したがって生活感覚としては、単一の最高位存在が下位のすべてを支配する体系よりも、複数の必要不可欠な力が関係し合って世界を成り立たせる体系の方が自然である。
南メソポタミアで起きた別の社会実験
これとは非常に異なる社会が、紀元前四千年紀の南メソポタミアで形成された。ウルクなどの都市では、それ以前の村落社会とは比較にならない規模で人口が集中し、周辺地域からの人口流入、広域交易、専門職、行政機構、階層社会が発達した。ここで人間の生活上の問題は根本的に変化する。小規模な定住集落なら、「あの家の人間だから信用する」「昔から取引しているから大丈夫だ」という人格的関係で社会をある程度運営できる。しかし数万人規模の都市、多数の出自を持つ人々、遠隔地から来る商人、大量の商品、行政的配給を扱う社会では、それでは足りない。
そこで必要になるのが、数量、標準単位、印章、記録、契約、証人、所有、行政分類といった、個人的関係を超えて通用する仕組みである。文字の発達もこの文脈に位置づけられる。最初期の文字資料の多くが文学や哲学ではなく、物資の管理や会計に関係していたことは象徴的である。巨大社会では、人間の記憶だけでは情報を保持できない。そこで「誰が言ったか」ではなく「何が記録されているか」が重要になる。
これは単なる技術革新ではない。具体物から共通形式を取り出す認知操作が、社会運営の中心になったということである。羊三匹、麦三単位、労働三日という異なる対象から、「三」という数量関係を抽出する。契約でも同じで、「この人物だから信用する」ではなく、「この条件に同意した者にはこの義務が生じる」とする。相手の人格や土地の文脈から独立した形式を作らなければ、大規模都市は運営できない。
国家、都市、契約、法、会計、文字、所有、標準単位、官僚制などは、石や木のような物体ではない。それらは、不特定多数の人間を協働させるための抽象的な社会装置である。この意味でウルク革命の核心は、単に文字や車輪を発明したことではなく、顔見知りの小集団を超えて巨大社会を運営するための「社会的OS」の祖型を作ったことにあった、と捉えることができる。
社会流動性が抽象化を要求する
ここから一つの一般仮説が導ける。人間関係や集団所属の流動性が高くなるほど、ローカルな共同体の暗黙知だけでは社会を運営しにくくなる。異なる土地、異なる家族、異なる慣習を持つ者同士が接触すれば、「うちではそうする」という説明では合意できない。そこで、誰にでも適用できる規則、第三者が確認できる記録、誰が相手でも通用する数量、人格的関係から独立した契約が必要になる。
現代文化心理学では、これに近い「関係流動性」という概念が研究されている。人々がどの程度自由に社会関係を選択・変更できるかという社会生態学的条件が、信頼、自己開示、対人行動などの心理差と関連することが多国間研究で示されている。また北山忍らは近年、文化差を単なる「東洋と西洋の思想差」としてではなく、生態・地理が生業や社会実践を作り、それが社会構造、文化、心理へとつながる「eco-cultural complex」として捉えている。これは、文化を原因として固定するのではなく、文化そのものがどのような生活条件から生まれたのかを説明しようとする方向である。
ギリシャで抽象化はさらに「普遍化」された
古代ギリシャはメソポタミアの単純な後継ではない。エジプト、フェニキア、アナトリア、レヴァントなどを含む東地中海の広い交流圏の中で成立した。しかし、古代西アジアですでに発達していた記録、数量、法、契約、標準化といった抽象的社会技術が、何千年もの交流を通じて地中海世界へ受け継がれていったことは重要である。
ギリシャではさらに、紀元前九〜五世紀ごろの植民、海上交易、亡命、移住、異民族との接触などによって、人々の社会的流動性が非常に高まった。異なる共同体の人間と繰り返し接触すれば、自分たちのローカルな常識は絶対ではなくなる。そこで「異なる人間にも通用する共通基準」を明示的に作る必要が生じる。ポリス、とりわけアテネでは、法廷、民会、政治、教育、哲学で公開討論が重要な制度となった。
ここで抽象化はさらに一段進む。契約や数量では「異なる具体物を共通形式で処理する」ことが必要だったが、討論では「なぜその主張が正しいのか」を、相手や第三者が検証できる形で示す必要がある。「私はそう思う」ではなく、「誰が検討しても同じ結論になる理由」が要求される。古代ギリシャの数学的演繹と、対話・論争・説得文化との関係を論じる近年の研究は、この点をかなり明確にしている。
数学的証明とは、「この三角形ではうまくいった」という報告ではない。「この条件を満たすすべての三角形について必ず成立する」ことを示す行為である。ここでは個別の文脈を捨て、誰にでも、どこでも成立する関係だけを取り出す。この認知習慣が哲学へ進めば、「この人は勇敢である」から「勇気そのものとは何か」へ、「この美しいもの」から「美そのもの」へ進む。プラトンのイデア論は、その普遍化が存在論にまで押し上げられた極端な形として理解することができる。
議論文化のさらに下に社会流動性がある
ここで「ギリシャ人は議論好きだったから哲学が発達した」と説明するだけでは、まだ一段浅い。なぜ議論がそれほど必要だったのかを問う必要がある。高い人口移動と交易、異なる慣習を持つ人々の接触によって、暗黙の共通前提が通用しなくなったからこそ、共通ルールを言葉で明示し、異論を処理する制度として公開討論が発達した可能性がある。したがって、社会流動性、共通規則の必要、討論、論証、普遍命題という一連の流れを考えることができる。
これはホモ・サピエンスの社会性ともよく整合する。人類はもともと、協力、評判管理、第三者評価、規範形成、交換、集団間協力などの能力を持っている。長期定住型社会では、それらの能力は持続的な人間関係の調整に使われやすい。一方、流動性の高い都市・交易社会では、「知らない他者とどう協力するか」という問題に使われる。そこで契約、法、貨幣、記録、証人、一般規則など、人格的信頼を代替する制度が文化的に選択されていく。
「文脈を読む知」と「文脈を超える知」
ここまでの仮説を最も簡潔に表すなら、日本列島と古代西アジア・地中海世界では、異なる認知戦略が長期的に報われた可能性がある。日本列島では、複数の生態圏、大きな季節変動、長期定住という条件の中で、「文脈を正確に読むこと」が重要だった。海には海、山には山、春には春、冬には冬のやり方がある。したがって、現象を観察し、関係を読み、その状況に適した応答へ切り替える知が発達しやすい。
これに対して古代西アジアから地中海世界では、都市化、人口移動、交易、異集団接触の中で、「文脈を超えて共有できる形式」を作る利益が大きかった。個別事例から共通形式を抜き出し、それを一般規則へ変え、さらに普遍原理へ押し上げる。この方向の知が強化された可能性がある。
これは「日本人は具体的で、西洋人は抽象的」という話ではない。和算を見れば、日本にも極めて高度な抽象数学は成立している。問題は抽象化能力の有無ではなく、どの方向への抽象化が社会的・文化的に強く報われたかである。日本では、異質なものを一つへ還元するより、それぞれを残したまま関係を読み、必要に応じて組み替える。西アジア・地中海世界では、異質な者同士を接続するために、個別性を捨てて共通形式を抽出する。この違いである。
宗教は原因ではなく、生活世界から生まれた中間生成物でもある
この視点を採ると、宗教の位置も変わる。「八百万の神が日本人を多元的にした」「一神教が西洋人を普遍主義的にした」という説明は、因果の途中から始まっている可能性がある。日本列島では、多生態圏の反復利用、多元的な生活知、場所ごとの祭祀がまず存在し、それが後世の多元的・生成的神観へつながった可能性がある。一方、古代西アジア・地中海世界では、都市、交易、人口流動、契約、記録、一般規則といった社会経験が、抽象秩序や普遍法への親和性を先に形成し、それが後世の哲学や宗教と結びついた可能性がある。
もちろん、宗教が成立した後は、宗教そのものが人間の世界観を再形成する。したがって因果は一方向ではない。生活世界が認知習慣を作り、認知習慣が文化や宗教を作り、完成した文化や宗教が次世代の認知を再び形成する。重要なのは、最初から宗教を唯一の原因に置かないことである。
シュメールは「文明の祖型」だったのか
この意味で、「人類はシュメール文明ですでに文明の祖型をかなり完成させていた」という見方には一定の鋭さがある。国家、都市、官僚制、文字、記録、数量、契約、所有、標準化、専門職、交易ネットワークといった、後世の文明を構成する基本装置の多くが、紀元前四千〜三千年紀にはすでに高度な形で現れている。
その後の歴史では、それらを動かす物質的な道具の性能が猛烈に向上した。粘土板は紙になり、印刷物になり、データベースになった。印章は署名、身分証、電子認証へ変化した。倉庫会計は帳簿、複式簿記、企業情報システムへ発展した。しかし、「大量の知らない人間をどのように協働させるか」という基本問題は驚くほど変わっていない。この意味で文明史は技術発明史であると同時に、人間個人を超えた抽象物――法、国家、契約、貨幣、権利、単位、組織――を社会的に実在するものとして機能させてきた歴史でもある。
ギリシャはその抽象化を論証、数学、哲学へ押し進め、ローマはそれを法と行政によって広域化し、後のキリスト教世界では普遍的な神と普遍的秩序という神学がそこへ重ねられた。このように考えれば、ケルト人やゲルマン人まで最初からプラトン的だったと仮定する必要はない。後世のヨーロッパ人は、すでに長い時間をかけて形成されていた法、都市、貨幣、文字、教育、宗教という「抽象OS」の中へ徐々に組み込まれていったと考えればよい。
どこまでが事実で、どこからが仮説か
ここは明確に区別する必要がある。縄文社会が長期定住的な狩猟採集社会であり、多様な季節性資源や海陸資源を利用していたこと、ウルク期に大規模な都市化、人口集中、広域交易、行政・記録技術が発達したこと、古代ギリシャで大規模な移住・植民と公開討論が発達したこと、ギリシャの討論文化と数学的演繹との関係が研究されていること、そして現代文化心理学で生態・生業・社会関係の構造と心理特性との関連が実証的に研究されていることは、かなり確かな部分である。
一方、縄文期の複合的な資源利用が後世の八百万的・生成的世界観へ直接つながったこと、メソポタミアの都市的抽象化がギリシャの普遍主義的哲学へ長期的に接続したこと、さらにこれらが現代まで観察される分析的認知と包括的認知の文化差の遠い起源になったことは、現段階では仮説である。ただし、この仮説は単なる物語で終わる必要はない。似た生態条件や社会流動性を持つ別地域を比較し、多生態圏利用の長期定住社会では文脈依存的な認知や多元的世界観が強いのか、高流動・長距離交易社会では一般法、契約、標準化、抽象分類、形式論証が発達しやすいのかを検証することができる。ゲーム理論やエージェントベースモデルを利用して、異なる条件下でどのような規範や認知戦略が安定するかを調べることも可能だろう。
哲学の下には生活がある
最終的に重要なのは、日本と西洋のどちらが優れているかという話ではない。同じホモ・サピエンスが異なる環境に置かれたとき、何を考えることが繰り返し有利だったのか、という問題である。日本列島では、多様で近接した自然、大きな季節変動、長期定住の中で、「文脈を読み、異なる秩序を切り替える」という能力が文化的に磨かれた可能性がある。古代西アジアから地中海世界では、人口移動、都市、交易、異集団接触の中で、「文脈を超えて通用する形式を作る」という能力が文化的に磨かれた可能性がある。
一方は、世界の中に存在する複数の秩序を読む。もう一方は、複数の世界に共通する秩序を抽出する。この違いが長い時間をかけて制度、宗教、神話、哲学、数学、政治へ沈殿したとすれば、日本では「成る」「移ろう」「関係する」という世界理解が、西洋では「原理」「法」「定義」「普遍」という世界理解が、それぞれ強い文化的親和性を持つようになった可能性がある。
この仮説の面白さは、思想から思想を説明しないところにある。人間がまず世界を生き、その生活の中である考え方が繰り返し役に立ち、役に立った認知習慣が社会実践となり、社会実践が制度となり、制度が文化となり、文化が神話や宗教や哲学として言語化される。そして言語化された思想が、今度は後世の人間の認知を再び形成する。
環境 → 生活 → 社会関係 → 反復される認知 → 制度 → 文化 → 思想 → 再び人間の認知へ。
「西洋にはなぜイデア的な世界観があるのか」「日本ではなぜ世界の外から秩序を与える唯一の原理が馴染みにくかったのか」を考えるなら、プラトンや『古事記』から始めるだけでは遅すぎるのかもしれない。見るべきなのはその前である。どんな場所で、誰と、何を食べ、誰と交換し、どのような相手を信用し、どのように一日を生きていたのか。哲学のずっと下には生活がある。そして哲学史のかなりの部分は、文字に残らなかった生活史の上に立っているのかもしれない。