読解力は一つではない|数学・物理・自然言語を分ける
「国語の読解力がある」「読解力が低い」といった言い方は、教育の場ではごく普通に使われている。しかし、よく考えてみると、この「読解力」という言葉はかなり大雑把である。
理科について「理科力」、社会について「社会力」とはあまり言わないし、数学についても、計算力、証明力、図形把握、数理的推論など、比較的細かく能力を分けて語る。それに対して国語では、語彙、構文理解、論理関係、因果関係、人物心理、文脈理解、要旨把握などをまとめて「読解力」と呼んでしまうことが多い。
この曖昧さは、大学数学まで視野を広げるとさらに明確になる。高度な数学の定義や定理を理解し、その証明を追うことのできる人は、当然かなり高度な「読む」能力を使っている。しかし、その人が小説の人物心理や歴史的文章の因果関係を読むことにも同じように優れているとは限らない。逆に、文学作品を精密に読める人が、数学の定義や証明を同じように読めるとも限らない。
つまり、「読む」という行為の内部には、かなり異なる種類の処理が存在している。そこで、読解を「構造」「論理的導出」「時間発展」「意味論」という四つの観点から分けて考えてみると、数学、物理、自然言語の違いがかなりきれいに見えてくる。
数学では、まず「構造」を読む
数学の文章を読むとき、最初に必要になるのは、必ずしも論理的導出ではない。むしろ先にあるのは、定義や定理によって与えられた構造を理解することである。
たとえば写像 f:A→B が定義されたとき、まず読むべきなのは、何が定義域で、何が値域で、どのような対応が考えられているのかという構造である。群ならば、集合と演算、単位元、逆元などの関係を読み取る。位相空間なら、集合と開集合族の関係を読む。線形代数なら、ベクトル空間、部分空間、線形写像、核、像などの関係を読む。
ここで重要なのは、これらが基本的には「時間の中で起こる出来事」ではないことである。ある構造の中で、何と何がどのような関係に置かれているかを理解しているのであって、「まずAが起き、その結果Bが起きた」という時間的系列を読んでいるわけではない。
この意味で、数学的読解の第一段階は「論理力」というより構造把握力と呼んだ方がよい。定義や定理を読んだときに、その対象の全体像がどのような形をしているかをつかむ能力である。
その構造の中を進むのが「論理的導出」である
構造を理解したあとで必要になるのが、論理的導出である。ある仮定から何が従い、その結果さらに何が導かれるかを一段ずつ追っていく。
A ⇒ B ⇒ C ⇒ D
という連鎖があるとき、数学では、それぞれの矢印が本当に成立しているかを確認しなければならない。最終的に A ⇒ D が直感的に明らかに見えても、その途中が保証されていなければ証明にはならない。
数学を学んでいると、この作業がひどく面倒に感じられることがある。構造が見えてしまった人ほど、「もう結論は分かっているのだから、途中はいいだろう」と思いやすい。しかし、数学ではその途中を省略しないこと自体が重要である。論理的導出は、構造上の可能性を正式に確定するための手続きだからである。
ただし、ここには数学独特の性格もある。論理的導出そのものが最終目的とは限らない。一度証明された定理は、次からは新しい部品として使うことができる。長い証明過程は圧縮され、「この条件ならこの結論が使える」という一つの新しいルールになる。
その意味で数学は、論理を展開する学問であると同時に、展開された論理を圧縮し、新しい構造やルールを獲得していく学問でもある。論理的導出は重要だが、最終的な価値は、その導出によって「何が新しく使えるようになったか」に置かれることが多い。
物理では数学構造に「時間発展」が入る
物理では、数学と同じ式を使っていても、読み方が変わる。
たとえば微分作用素 d/dt は、数学では関数を別の関数に写す作用素として扱うことができる。しかし物理で dx/dt と書けば、それは位置 x が時間とともにどのように変化するか、つまり速度として読まれる。
さらに d²x/dt² なら、速度が時間とともにどう変化するか、すなわち加速度という意味を持つ。
ここでは、同じ数学構造に時間発展という物理的意味が与えられている。数学的には微分方程式は変数同士の関係を示した式であっても、物理的には、
S(t0) → S(t1) → S(t2)
という状態系列を生み出す法則として読まれる。
この違いはかなり本質的である。数学では、ある関係が成立していることを問題にする。物理では、その関係を使って「現在の状態から次にどうなるか」を読むことが多い。
したがって、数学が主として静的な関係構造を扱うのに対し、物理ではそこに時間発展が加わる。
自然言語では、さらに「意味論」が加わる
自然言語の文章になると、さらに複雑になる。
たとえば、
父が亡くなった。彼は家業を継いだ。大学進学を諦めた。
という文章を読むとき、私たちは単に三つの命題が並んでいるとは理解しない。父の死によって家庭状況が変わり、その結果として家業を継ぐ必要が生まれ、そのことが進学断念につながったのだろう、と因果関係を補う。
つまり、自然言語では S0 → S1 → S2 → S3 という時間発展を読むだけでなく、その背後にある因果関係まで再構成している。
しかも自然言語では、書かれていないことを補う必要がある。「雨が降っていた。彼は傘を持っていなかった。会議に遅れた」と書かれていれば、私たちは雨によって移動が困難になったという因果を常識から補う。
数学で書かれていない仮定を勝手に足すことは危険だが、自然言語では、むしろ適切に補わなければ文章を理解できない。
さらに人物の意図、感情、皮肉、暗黙の前提、社会的文脈、過去の履歴なども加わる。自然言語の理解では、「何が成り立つか」だけでなく、「なぜそうなったのか」「誰がどう受け取ったのか」「その出来事がその後の選択にどう影響したのか」を読む。
ここで必要になるのが広い意味での意味論である。単語や文の字義的意味だけではなく、出来事や人物、文脈を一つの世界モデルとして再構成する働きまで含めた意味論である。
数学・物理・自然言語は何が違うのか
以上を整理すると、三つの領域は次のように見ることができる。
数学
構造 + 論理的導出
物理
構造 + 論理的導出 + 時間発展
自然言語
構造 + 論理的導出 + 時間発展 + 意味論
もちろん、これは厳密な分類ではない。数学にも動的系はあるし、物理にも静的構造はある。自然言語にも形式的な論証は存在する。それでも、読解の「重心」がどこにあるかを考える枠組みとしては有効である。
「論理力」も一枚岩ではない
ここまで来ると、「読解力」だけでなく「論理力」という言葉もかなり曖昧であることが分かる。
数学でいう論理は、ある仮定から何が必然的に導かれるかという論理的含意を中心にしている。そこには必ずしも時間の流れはない。
一方、物理では、現在の状態から次の状態がどう生じるかという発展法則を読む。
自然言語では、さらに出来事の順序、因果、意図、背景知識、暗黙の前提を使って意味の連鎖を組み立てる。
これらをすべて「論理」と呼ぶことはできるが、その中身はかなり違う。数学的論理が得意だからといって、自然言語的な因果理解まで自動的に得意になるわけではない。
むしろ、ある領域で身につけた優秀な読み方が、別の領域では邪魔になる可能性さえある。
数学では「書いてある条件だけを使え」という態度が重要だが、自然言語では「書いていない背景を妥当に補え」が必要になる。自然言語では時間的因果を追うことが重要だが、数学では時間的系列として読んではいけない構造が大量にある。
読解能力とは、単に強ければよいものではなく、対象に応じて読むモードを切り替える能力でもある。
ある読解様式への熟達は、別の読解を妨げるのか
ここでさらに一つ、興味深い仮説が立てられる。ある領域で高度に訓練された読解様式は、別の領域を読むときに必ずしも有利に働くとは限らず、場合によっては干渉するのではないか、という仮説である。
数学では、定義された対象の構造を正確に把握し、そこから必要な命題だけを論理的に導出することが重要になる。書かれていない背景事情を勝手に補わず、時間的な物語を持ち込まず、関係そのものを見る。この読み方は数学において極めて優秀である。
しかし、自然言語では事情が逆になることがある。文章に書かれている命題だけを追っても、意味が十分に復元できないからである。出来事の前後関係、人物の意図、背景知識、暗黙の因果、過去の履歴などを補いながら、「なぜ現在の状態になったのか」を時間発展として再構成する必要がある。
つまり数学では、
構造の把握 + 明示された関係からの導出
が強く要求されるのに対し、自然言語では、
時間発展の復元 + 暗黙の意味関係の補完
が大きな役割を果たす。
この違いを考えると、「数学を長くやれば読解力全般が高まる」と単純に考えるのは危険である。数学的読解に高度に適応した人ほど、文章を静的な構造として切り出し、明示された関係だけを処理する傾向が強くなる可能性がある。その結果、自然言語で必要になる時間的因果や履歴依存、暗黙の意味を読む処理が相対的に弱くなることも考えられる。
逆の可能性もある。自然言語的な読解に長く慣れた人は、文章を読むときに「何が起き、その結果どう変わったか」という時間発展を自動的に補う。その習慣が強いと、数学の定義や定理まで、無意識に出来事の系列として読んでしまうことがある。
たとえば A ⇒ B という数学的含意を、「まずAが起き、その結果Bが生じる」と時間的に読むなら、それは数学的には余分な意味を付け加えていることになる。数学が扱っているのは、多くの場合、出来事の生成ではなく、同時に成立する関係構造だからである。
この意味では、数学と自然言語のあいだには単なる能力差ではなく、読解モードの違いがある。
数学では、時間をいったん止めて構造を見る。
自然言語では、構造を時間の中に戻して変化を読む。
物理はその中間に位置し、数学的構造を用いながら、そこに時間発展という意味を与える。
したがって高度な読解とは、単一の能力を高めることではなく、対象に応じて読解モードを切り替えることなのかもしれない。静的な関係構造を読むべきところで時間発展を持ち込まず、時間発展を読むべきところで静的構造だけに還元しない。その切り替え自体が、一種のメタ読解能力である。
もしこの仮説が正しいなら、「数学が得意なのに国語が苦手」「文学には強いのに数学の定義が読みにくい」といった現象を、単純な知能差や読解力の高低だけで説明する必要はなくなる。
むしろ問題は、どの読解様式に強く最適化されているかなのである。
読解力とは「何を読む力」なのか
結局、「読解力がある」という言い方だけでは、あまり多くのことを説明していない。
重要なのは、何の構造を読み取れるのか、どの程度論理的導出を追えるのか、時間発展をどこまで再構成できるのか、どの程度意味論的な背景や因果を補えるのか、ということである。
大学数学の定理を読める人と、小説の人物心理を読める人は、どちらも高度な読解をしている。しかし、使っている能力の組み合わせが違う。
したがって読解力とは、単純に「文章を理解する力」でも「論理を読む力」でもない。より正確には、対象領域に応じて、そこに存在する構造、論理的導出、時間発展、意味論を再構成する力である。
そう考えると、「国語の読解力」という一語で能力をまとめてしまうことが、いかに粗いかが分かる。読むという行為は一つではない。数学を読むこと、物理を読むこと、自然言語を読むことは、互いに重なりながらも、それぞれ異なる世界の見方を要求しているのである。