宮沢賢治の心象スケッチとは何か
『春と修羅』冒頭に見る、心と世界が分かれる前の描写
宮沢賢治の『春と修羅』の冒頭には、有名な文章があります。
「わたくしという現象は」
この一文から始まる序は、詩のようでもあり、哲学のようでもあり、科学的な観察記録のようでもあります。
読んでいると、普通の意味での「私」が、少しずつほどけていくような感覚があります。
ここで賢治は、「私はこう思った」「私はこう感じた」とは書いていません。
そうではなく、最初から「わたくしという現象」と書いている。
この言い方が、すでに普通ではありません。
私とは、固定された一個の存在ではない。
確かな人格や、動かない中心のようなものでもない。
風景や他者や記憶や感覚と一緒に、せわしく明滅しながら立ち上がっているもの。
それが「わたくし」である。
賢治は、そのように自己をとらえているように見えます。
学問は、もわっとしたものに名前を与える
人間の学問は、多くの場合、心や精神に言葉や記号を与える営みです。
物理学は、世界を力、運動、エネルギー、場としてとらえる。
経済学は、欲望、交換、希少性、価値としてとらえる。
政治学は、権力、制度、正統性としてとらえる。
心理学は、認知、感情、記憶、動機づけとしてとらえる。
数学は、構造、関係、形式としてとらえる。
倫理学は、善悪、義務、価値としてとらえる。
どの学問も、世界や人間の心に、ある見方を与えます。
もわっと湧き出ているものを、扱える形に切り分ける。
名前をつける。
記号にする。
形式にする。
それによって、私たちは世界を考えることができるようになります。
しかし、その手前には、まだ分類されていないものがあります。
まだ物理にも、心理学にも、倫理にも、数学にも分かれる前のもの。
感覚、記憶、風景、身体、光、音、時間、他者の気配。
それらが、まだ一つの泉のように湧き出している場所。
宮沢賢治のいう「心象スケッチ」とは、この分類前の泉を、そのまま描こうとしたものではないかと思います。
心の中だけではなく、世界そのものでもある
「心象」という言葉だけを見ると、心の中のイメージのように思えます。
しかし、賢治の心象スケッチは、単なる内面描写ではありません。
普通の内面描写なら、
私は悲しい。
私は不安だ。
私はこの風景を見てこう感じた。
という形になります。
ところが『春と修羅』の冒頭では、心と世界の境目がもっと揺らいでいます。
風景は外にある。
しかし、それは私と一緒に明滅している。
記録された景色は、記録されたそのとおりの景色である。
けれど、その記録も、歴史も、感覚も、時間の中で変わっていく。
つまり、賢治にとって心象とは、「心の中に閉じ込められた主観」ではない。
同時に、「外にある客観的世界をそのまま写したもの」でもない。
心と世界が触れ合い、区別される前の状態。
見るものと見られるものが、同じ現象の中で明滅している状態。
そこを描こうとしている。
だから、心象スケッチは単なる心理描写ではありません。
それは、心と世界が互いに映り合う瞬間の記録です。
もわっとしたものを、もわっとしたまま正確に描く
ここで難しいのは、もわっとしたものをそのまま書こうとすると、普通はただ曖昧な文章になってしまうことです。
「宇宙と心がつながっている気がする」
「すべてはひとつである」
「私は世界の一部である」
このように書くことはできます。
しかし、それだけでは、どこか抽象的で、ありきたりになってしまう。
賢治がすごいのは、もわっとしたものを、もわっとしたまま放置しないところです。
そこに、非常に硬い語彙を打ち込む。
有機。
交流電燈。
鉱質インク。
沖積世。
氷窒素。
白堊紀砂岩。
第四次延長。
こうした言葉が入ることで、心象はただの夢になりません。
夢のようなのに、鉱物の硬さがある。
幻のようなのに、観察記録のような手触りがある。
詩なのに、科学的な標本のようでもある。
内面を書いているのに、地質や光や時間の構造まで入り込んでいる。
ここが、賢治の文章の異様な強さです。
心をそのまま描こうとすると、たいてい湿っぽくなります。
精神をそのまま描こうとすると、抽象的になります。
宇宙を描こうとすると、壮大ぶった文章になりがちです。
しかし賢治は、そのどれにもなっていない。
心象を描きながら、湿らない。
宇宙を書きながら、空疎にならない。
科学的な語を使いながら、冷たくならない。
そこに、ほかの文章ではなかなか到達しない不思議な密度があります。
「わたくし」は、固定された私ではない
『春と修羅』の冒頭で特に重要なのは、「私」が固定された存在として描かれていないことです。
私とは、ここに動かずにある主体ではない。
周囲の風景を外側から眺める観察者でもない。
むしろ、私自身がひとつの現象です。
光のように明滅する。
風景や他者と一緒に変化する。
過去の記録や感覚とともに成り立つ。
しかも、その成り立ち自体も、時間の中で変質していく。
だから、賢治の「わたくし」は、私であって私ではない。
一個の実体ではなく、さまざまな感覚や記憶や風景が一時的に組み合わさって現れているもの。
その意味で、「わたくしという現象」という言い方は、非常に正確です。
これは、自己を「中身のある箱」のように考える見方とは違います。
私の中に心がある。
その心が外の世界を見る。
そして、それを言葉にする。
そういう順番ではない。
心と世界と言葉が、同時に立ち上がっている。
その立ち上がりそのものを描こうとする。
それが心象スケッチなのだと思います。
学問になる前の、精神の湧き口
人間の知は、たいてい分類されます。
これは科学。
これは文学。
これは心理学。
これは哲学。
これは数学。
これは歴史。
そう分けることで、私たちは考えやすくなります。
しかし、実際の心の働きは、最初からそんなふうに分かれているわけではありません。
何かを見た瞬間、そこには感覚がある。
記憶が動く。
身体が反応する。
言葉になりかける。
過去の経験が重なる。
他者の声が混ざる。
時間の感覚が生まれる。
世界の構造を考え始める。
そのあとで、私たちはそれを分類します。
これは心理学的な問題だ。
これは物理的な問題だ。
これは倫理的な問題だ。
これは社会的な問題だ。
これは数学的な構造だ。
しかし、賢治が描こうとしたのは、その分類のあとではない。
分類される前の、精神の湧き口そのものです。
学問は、泉から流れ出た水に名前をつける。
賢治は、泉の水面そのものを書こうとした。
水が湧く。
揺れる。
光を反射する。
底の石が見える。
空も映る。
見ている者の顔も映る。
そのすべてが、まだ一つの動きとしてある。
心象スケッチとは、そのようなものではないかと思います。
なぜ「スケッチ」なのか
賢治は「心象スケッチ」という言葉を使います。
ここで「スケッチ」という言葉が重要です。
スケッチは、完成された絵画ではありません。
瞬間をとらえるものです。
対象を固定しきるのではなく、そのとき見えたもの、感じられたものを、素早く写し取る。
しかし、だからといって雑なメモではありません。
よいスケッチは、完成作以上に、その瞬間の本質をつかむことがあります。
輪郭だけなのに、生きている。
少ない線なのに、動きがある。
描かれていない部分まで感じられる。
賢治の心象スケッチも、まさにそうです。
それは心の完成された理論ではない。
体系的な哲学でもない。
心理学の説明でもない。
その瞬間に、心と世界がどのように現れていたか。
それを、言葉で写し取ろうとしたものです。
だから「心象記録」でもなく、「心象理論」でもなく、「心象スケッチ」なのだと思います。
そこには、未完成さがあります。
明滅があります。
変質する可能性があります。
しかし、その瞬間にしかない正確さもあります。
『春と修羅』冒頭のすごさ
『春と修羅』の冒頭のすごさは、心や精神を説明していないところにあります。
説明するのではなく、立ち上がらせている。
定義するのではなく、明滅させている。
分類するのではなく、分類前の状態を言葉で保っている。
これは、非常に難しいことです。
普通は、言葉にした瞬間に、何かの分類になります。
心理と言えば心理学になる。
物質と言えば物理になる。
善悪と言えば倫理になる。
社会と言えば社会学になる。
数と言えば数学になる。
しかし賢治は、その分類の手前で書いています。
だから、『春と修羅』の冒頭は、詩でありながら、単なる詩ではない。
哲学のようでありながら、哲学そのものではない。
科学的な語彙を持ちながら、科学の説明文ではない。
それは、心と世界が分かれる前の、精神の原液のようなものを、言葉として取り出した文章です。
そして、その原液は、決してぼんやりしていない。
むしろ、異様に正確です。
もわっとしたものが、もわっとしたまま、しかし確かに言葉になっている。
ここに、賢治の恐ろしいほどの力があります。
心象スケッチとは何か
心象スケッチとは、心の中の絵を描くことではない。
それは、心と世界が同時に立ち上がる瞬間を描くことです。
まだ学問に分かれる前の、感覚の湧き口。
まだ主観と客観に分かれる前の、風景の明滅。
まだ説明になる前の、精神の震え。
まだ固定された「私」になる前の、「わたくしという現象」。
それを、言葉で写し取る。
だから、心象スケッチは曖昧な内面表現ではありません。
むしろ、人間が世界を感じ、考え、名づける以前の状態を、できる限り正確に描こうとする試みです。
学問は、心と世界にさまざまな形式を与えます。
それは必要なことです。
しかし、その前に、泉のように湧き出しているものがある。
宮沢賢治は、その泉の表面に揺れる光を描こうとした。
『春と修羅』の冒頭が今も強く響くのは、そのためだと思います。
そこには、完成された説明ではなく、説明が生まれる前の世界がある。
分類された知識ではなく、知識が湧き出す前の精神がある。
心象スケッチとは、その場所を描くための言葉だったのです。