構造と主体とは何か|ヘゲモニー・再節合・抵抗から考える社会変化
「社会構造が人間を作るのか、それとも人間が社会を作るのか」。これは社会学における古典的な「構造と主体」の問題である。カルチュラル・スタディーズや20世紀後半の社会理論は、この問いに対して、構造の完全な外部に立つ自由な主体を想定するのではなく、**既存の社会が与えた意味・制度・文化を内部から組み替えることで変化が生じる**という視点を発展させてきた。
本稿では、グラムシのヘゲモニー論、レイモンド・ウィリアムズの文化理論、スチュアート・ホールの節合と再節合、フーコーの権力論、ド・セルトーの日常的実践、ブルーマーのシンボリック相互作用論を比較しながら、**「構造に規定されながら、なぜ人間は新しい意味・価値・集合性を作ることができるのか」**を整理する。
構造の外部なき変化
ヘゲモニー・節合・抵抗・日常実践からみる「内部からの再構成」の社会理論
要旨
本稿は、資本主義・国家・メディアなどの社会構造から完全に独立した「純粋な外部」を想定せず、それでもなお社会変化や抵抗がいかに可能かという問題を、20世紀後半の社会理論を横断して検討する。グラムシのヘゲモニー論、レイモンド・ウィリアムズの支配的/残存的/創発的文化、スチュアート・ホールの節合と再節合、フーコーの関係的権力論、ド・セルトーの日常的戦術、さらにブルーマーのシンボリック相互作用論を比較し、制度が与える意味資源と行為者の解釈・転用・再編集の相互作用を整理する。本稿の中心命題は、社会的行為者は構造の外部に立つのではなく、構造が提供した制度・言語・カテゴリー・文化的資源を別の結合関係へ組み替えることによって、新しい意味、実践、集合性を形成しうる、というものである。ただし、これらの理論は同一の学派ではなく、抵抗の政治性、権力の所在、主体の自由度について重要な差異をもつ。
キーワード:構造と主体/ヘゲモニー/節合/再節合/抵抗/日常実践/シンボリック相互作用論
理論比較の概観
| 論者 | 中心概念 | 構造理解 | 変化・抵抗の回路 |
|---|---|---|---|
| グラムシ | ヘゲモニー/市民社会 | 強制だけでなく同意と常識による支配 | 陣地戦・対抗的ヘゲモニー |
| R.ウィリアムズ | 支配的・残存的・創発的文化 | 文化は一枚岩ではなく異質な時間層を含む | 創発的実践・残存文化の再利用 |
| S.ホール | 節合/再節合 | 要素間の結合に必然性はない | 記号・主体・政治的意味の再結合 |
| M.フーコー | 関係的・生産的権力 | 抵抗は権力の外ではなく関係内部に生じる | 局所的抵抗・主体化の変更 |
| M.ド・セルトー | 戦略/戦術 | 制度の空間を利用者が別の仕方で使う | 転用・流用・日常的実践 |
| H.ブルーマー | 意味・相互作用・解釈 | 意味は固定ラベルではなく行為の中で編集される | 選択・点検・保留・再編成・変形 |
1.問題設定――「外部に出られない」なら、変化はどこから生まれるのか
社会科学における古典的な難問の一つは、「社会構造が人間を作るのか、それとも人間が社会を作るのか」という構造と主体の問題である。極端な構造決定論に立てば、資本主義、国家、学校、家族、企業、メディア、ジェンダー規範などが人間の思考と行為を形成し、個人はその結果として理解される。しかしこの立場を徹底すると、構造を批判し、抵抗し、変更しようとする主体そのものがどこから現れるのかを説明しにくくなる。
反対に、行為者が自由に意味を作り、好きなように社会関係を変更できると考えるなら、制度の非対称な資源配分、法的強制、経済的不平等、教育による社会化、メディアによる可視性の偏りといった、現実の制約を過小評価することになる。したがって問題は、「構造か主体か」という二者択一ではない。問うべきなのは、構造に規定されている行為者が、その構造の内部でどのように意味や実践を変化させうるのか、である。
この観点から見ると、20世紀後半の社会理論には一つの共通した問題意識が浮かび上がる。すなわち、社会的行為者は、自分が変えようとしている社会によってすでに形成されているため、完全に無垢な「外部」に立つことはできない。しかし、そのことは変化が不可能であることを意味しない。むしろ、制度が与えた言語、カテゴリー、身体技法、文化、役割、空間、メディアなどを別の仕方で結び直すことによって、既存秩序とは異なる意味や実践を作ることができる。この論点を、本稿では「構造の内部からの再構成」と呼ぶ。
2.グラムシ――支配は強制だけでなく「常識」の中に存在する
アントニオ・グラムシのヘゲモニー論は、この問題を考える重要な出発点である。グラムシは近代西欧社会の支配が、軍隊、警察、裁判所、法律といった強制装置だけによって維持されているわけではないと考えた。学校、新聞、教会、家族、知識人、各種団体を含む市民社会の中で、「この社会はこういうものだ」「こう働くのが普通だ」「こういう人生が望ましい」といった常識が形成され、それへの同意を通じて秩序が維持される。支配とは、強制と同意の組み合わせなのである(Gramsci, 1971)。
この理解には重要な帰結がある。もし支配が日常的な文化や常識の形成を通じて成立するのであれば、抵抗もまた同じ場所で生じうる。国家権力を外部から一挙に破壊することだけが政治ではない。学校、新聞、スポーツ、芸術、宗教、家族、言語などの内部で、「何が普通か」「何が価値あるものか」をめぐって争うことも政治になる。グラムシが、正面衝突としての「機動戦」と対比して「陣地戦」を重視したのは、このためである。
ここではすでに、抵抗の場所が「社会の外」から「社会の内部」へ移動している。変革主体は既存社会から完全に自由な存在ではなく、既存社会が生み出した言語、制度、教育、組織、価値を使いながら、それらの結びつきを変えていく。
3.レイモンド・ウィリアムズ――支配文化は決して社会全体を覆い尽くさない
カルチュラル・スタディーズの重要な基礎を築いたレイモンド・ウィリアムズは、ヘゲモニーをさらに文化の日常的経験へ引き寄せた。文化は支配階級が上から注入する一枚岩のイデオロギーではない。生活習慣、期待、価値判断、感情、趣味、道徳、言葉遣いなどとして「生きられる」ものであり、社会秩序はそうした経験の水準にまで入り込んでいる(Williams, 1973; 1977)。
同時にウィリアムズは、文化の内部には支配的(dominant)、残存的(residual)、創発的(emergent)な要素が併存すると論じた。現在の秩序に適合する支配的文化だけでなく、過去から残る価値や実践、まだ制度化されていない新しい感情や関係の形式が存在する。したがって社会は、単一のイデオロギーに完全に覆われた閉鎖系ではない。
このモデルでは、変化は「無からの創造」ではなくなる。人々はすでに存在する文化的資源を使う。古い価値を新しい文脈で呼び戻したり、周辺的な実践を拡大したり、まだ名前のない感覚を共有可能な形式へ変えたりする。その意味で、支配的文化の内部には常に異質性が残っており、その異質性が新しい文化形成の材料になる。
4.スチュアート・ホール――節合と再節合
スチュアート・ホールの「節合(articulation)」概念は、「内部からの再構成」を最も明確に理論化したものの一つである。節合とは、異なる社会的・文化的要素が、特定の歴史的条件の下で結びつき、一つの意味連関や政治的構成を形成する過程を指す。重要なのは、その結びつきが自然的・必然的ではないことである(Hall & Grossberg, 1986)。
たとえば「スポーツ―国旗―国家―男性性―愛国心」という結合が社会的に強固であったとしても、スポーツという実践が自然法則として愛国心を意味するわけではない。その結合は制度、教育、メディア、歴史的経験によって形成されたものである。したがって同じスポーツが、「少数者の可視化―人権―国境を越えた連帯」と結びつく可能性もある。
このように、一度成立した節合を別の関係へ組み替えることが「再節合(re-articulation)」である。ここでは、記号や制度を必ずしも破壊する必要はない。既存の要素を別の要素と接続し直すことで、社会的意味を変えられる。抽象化すれば、A-B-C-Dという意味ネットワークをA-B-X-Yへ組み替える操作である。
ただしホールの議論は、意味が自由自在に変更できるという相対主義ではない。「必然的な対応関係がない」ことと、「現実に強固な結びつきが存在しない」ことは同じではない。長期にわたって制度化された節合は、教育、法、経済、メディア、身体習慣によって強化されるため、変更には政治的・文化的な力が必要になる。
5.フーコー――権力の外部ではなく、権力関係の内部に抵抗がある
ミシェル・フーコーは、別の理論的系譜から「純粋な外部」の問題に接近した。フーコーにとって権力は、支配者が所有し、上から下へ一方向に行使する「物」ではない。権力は家族、学校、病院、刑務所、専門知、性、身体規律など、無数の関係の中で作動する。しかも権力は単に抑圧するだけでなく、正常/異常、健康/病気、逸脱/適応といったカテゴリーや主体の自己理解そのものを生産する(Foucault, 1978)。
ここから、フーコーの有名な命題「権力のあるところには抵抗がある」が導かれる。重要なのは、抵抗が権力に対して完全に外在する純粋な場所から現れるのではないことである。抵抗は権力関係と同じ場の中に発生し、その関係の方向を変えたり、局所的な対抗点を形成したりする。
この点は逆説的である。権力は抵抗を抑えるだけでなく、ときに抵抗のための資源も生み出す。たとえば制度が人々をあるカテゴリーで分類したとき、その分類は統制の手段になりうる一方、分類された人々が共通性を認識し、集合的アイデンティティや運動を形成する資源にもなりうる。権力が生み出したカテゴリーが、別の意味を付与されて対抗的に使用されるのである。
6.ド・セルトー――制度が作ったものを、別の仕方で「使う」
ミシェル・ド・セルトーは、この問題をさらに日常生活のレベルへ移した。『日常的実践のポイエティーク』で彼は、制度や組織が空間や規則を設計する「戦略(strategy)」と、その空間を所有しない人々が状況に応じて既存の仕組みを使い変える「戦術(tactics)」を区別した(de Certeau, 1984)。
都市計画者は道路、広場、駅、商業施設を設計する。しかし歩行者は設計者の意図通りにしか歩けないわけではない。近道をし、通行用の場所を待ち合わせ場所にし、本来想定されていない使い方を発明する。制度が提供した「文法」を使いながら、その文法だけでは予測できない文章を書くようなものである。
ここから、消費そのものが一種の生産であるという見方が生まれる。読者はテキストを受動的に受け取るだけでなく、読み替え、引用し、転用し、自分の生活の中で別の意味にする。商品、メディア、都市空間、言語、儀礼は、制度が定めた用途から完全に自由ではないが、利用者の実践によって別の意味へ変形されうる。
7.文化は「意味の生産」の場である
以上の理論を横断すると、文化の意味が変わって見えてくる。文化は単なる娯楽や表現物ではなく、「これは何なのか」「何が正常なのか」「誰が価値ある存在なのか」を社会的に決定する意味の場である。
たとえば失業を「個人の努力不足」と意味づけるか「雇用構造の問題」と意味づけるかで、責任の所在も政策の方向も変わる。移民を「脅威」と呼ぶか「社会を構成する隣人」と呼ぶかで、集団間関係は変わる。スポーツ選手を「国家の代理」と読むか「個人の表現者」と読むかで、同じ競技の政治的意味も変わる。
したがって、文化はヘゲモニーが再生産される場所であると同時に、ヘゲモニーが争われる場所でもある。支配的意味は行為者に先行して存在するが、その意味は使用されるたびに解釈され、交渉され、転用される。この動的過程こそが、「構造に規定されながら変化する」ための回路になる。
8.ブルーマーとの接続――意味は付与されるだけでなく、編集される
ここでシンボリック相互作用論、とりわけハーバート・ブルーマーを接続すると、マクロな文化・権力論に対して、意味が実際にどのように扱われるのかというミクロな過程が見えてくる。ブルーマーは、人間は物事が自分にとって持つ意味に基づいて行為し、その意味は社会的相互作用から生まれ、さらに解釈過程を通じて扱われ、修正されるとした(Blumer, 1969)。
重要なのは、解釈が既成の意味を機械的に適用する過程ではないことである。ブルーマーは、行為者が状況に照らして意味を選択し、点検し、保留し、再編成し、変形すると説明する。つまり意味は一度付与されたら固定されるラベルではなく、行為の方向に応じて編集される資源である。
この点をカルチュラル・スタディーズと接続すると、次のように整理できる。制度や歴史は、利用可能な意味資源と支配的な結合をあらかじめ形成する。しかし、その意味が具体的な行為を生むためには、個々の状況で人々によって解釈され、使用されなければならない。そしてその使用の過程で意味は再編集されうる。ホールの「再節合」が文化・政治の水準で行うことを、ブルーマーは相互作用と行為形成の水準で捉える、と分析的に比較することができる。
もちろん両者の理論的出自は異なる。ブルーマーはマルクス主義的なヘゲモニー論から出発しておらず、ホールはブルーマーのミクロ社会学をそのまま拡張したわけでもない。したがって両者を同一理論として扱うべきではない。しかし「意味は既成のものを単に受け取るのではなく、使用の中で編集される」という点では、強い相互補完性がある。
9.統合モデル――支配、転用、再節合、制度化
以上を一つの分析モデルとして整理すると、次の循環が得られる。
- 構造:資本主義、国家、学校、メディア、法制度などが制度的条件を形成する。
- 意味資源:言語、商品、カテゴリー、役割、身体技法、文化作品、空間などが提供される。
- 支配的意味づけ:何が普通で、正しく、望ましいかというヘゲモニーが形成される。
- 使用と解釈:行為者が具体的状況の中でそれらを使用し、意味を処理する。
- ずれと転用:交渉、誤読、パロディ、拒否、流用、別用途化などが生じる。
- 再節合:既存要素が別の価値、集団、物語、政治的主張と結び直される。
- 集合的実践:新しいサブカルチャー、アイデンティティ、社会運動、生活様式が形成される。
- 回収・制度化:市場や国家が新しい実践を商品化、制度化、主流化する。
- 再び意味の再編成が始まる。
このモデルでは、社会変化は「旧秩序を完全に破壊してから新秩序をゼロから作る」という一回的な出来事ではない。支配→転用→再節合→制度化→再転用という循環として捉えられる。社会の内部にあるものが社会変化の材料になるため、変化は既存秩序と連続しながら、同時にそこから逸脱する。
10.理論的含意――「外部なき変化」とは何を意味するのか
この議論から得られる第一の含意は、社会の産物であることと、社会を変えられないことは同じではない、ということである。行為者は言語、価値、教育、欲望、身体習慣を社会から与えられている。それでも、それらの結合様式は固定されていない。
第二に、抵抗は必ずしも制度の破壊という形式を取らない。既存の制度、記号、商品、文化、空間を別の用途で使うこと自体が、意味秩序の変化を引き起こしうる。したがって「抵抗」の研究は、革命や抗議行動だけでなく、日常的な読み替え、言葉遣い、趣味、身体表現、消費、ファンダム、スポーツ、SNS上の実践にも及ぶ。
第三に、意味の再構成は個人の内面だけで完結しない。個人が新しい読み方を思いついても、それが共有され、反復され、制度や集団に組み込まれなければ社会的効果は限定される。逆に、個人的な解釈が相互作用を通じて共有され、集合的な語彙や実践になるとき、それは新しい社会的現実の一部になる。
このため、「内部からの再構成」は、個人の自由な創造性でも、構造による一方的決定でもない。より正確には、構造が提供する制約された資源を用いて、行為者が意味と関係を編集し、その編集結果が再び構造へ返っていく循環である。
11.限界と注意――これらを一つの理論にしてはいけない
もっとも、グラムシ、ウィリアムズ、ホール、フーコー、ド・セルトー、ブルーマーを、同一の理論体系の構成要素として単純に統合することはできない。グラムシの中心問題はヘゲモニーと政治戦略であり、ウィリアムズは文化の歴史的動態、ホールは節合・表象・イデオロギー、フーコーは権力関係と主体化、ド・セルトーは日常的使用、ブルーマーは相互作用と解釈過程を中心に据える。それぞれが想定する主体、権力、歴史、政治の概念は異なる。
また、あらゆる転用を「抵抗」と呼ぶべきでもない。商品を本来とは違う用途で使ったからといって、それが政治的に支配関係を変えるとは限らない。サブカルチャー的な逸脱は容易に商品化され、既存市場の新しいカテゴリーとして吸収されうる。抵抗の効果を評価するには、誰が資源を持つのか、どの制度が決定権を持つのか、どの意味が広く流通できるのかという権力の非対称性を考える必要がある。
さらに、「純粋な外部はない」という表現も、これらの思想家が同じ意味で共有する教義ではない。フーコーの権力論における「外部」の否定と、ホールの節合論、グラムシのヘゲモニー論では理論的文脈が異なる。本稿の「外部なき変化」は、複数理論を比較するための分析的なまとめであり、彼ら自身が共同で提唱した単一概念ではない。
12.結論――社会は、その内部で使い直される
社会的行為者は、資本主義、国家、メディア、言語、教育、文化から完全に自由な場所に立つことはできない。批判する言葉も、抵抗に用いる記号も、組織する集団の形式も、多くの場合は既存社会から与えられたものである。しかし、与えられたものであることは、その用途まで固定されていることを意味しない。
グラムシは支配と抵抗の場を市民社会へ広げ、ウィリアムズは支配文化内部の異質性を示し、ホールは要素間の結合が歴史的・偶有的であり再節合可能であることを示した。フーコーは抵抗を権力関係の外部ではなく内部に位置づけ、ド・セルトーは日常的使用の中に転用の創造性を見いだした。ブルーマーは、意味が固定されたものではなく、行為者によって選択され、点検され、再編成され、変形される過程を理論化した。
これらを横断して見えてくるのは、社会変化を「外へ逃げること」としてではなく、「内部で結びつきを変えること」として捉える視点である。制度が与えた文化を使って別の意味を作り、既存のカテゴリーを別の集合性へ接続し、与えられた空間を別の用途で使い、既成の意味を編集する。社会は外側からだけ変えられるのではない。社会は、その内部で人々によって使い直されることによっても変化するのである。
参考文献
- Blumer, H. (1969). Symbolic Interactionism: Perspective and Method. Prentice-Hall / University of California Press reprint. https://www.ucpress.edu/book/9780520056763/symbolic-interactionism
- de Certeau, M. (1984). The Practice of Everyday Life. Trans. Steven Rendall. University of California Press. https://www.ucpress.edu/book/9780520271456/the-practice-of-everyday-life
- Foucault, M. (1978). The History of Sexuality, Volume 1: An Introduction. Trans. Robert Hurley. Pantheon. https://plato.stanford.edu/entries/foucault/
- Gramsci, A. (1971). Selections from the Prison Notebooks. Ed. & trans. Quintin Hoare and Geoffrey Nowell Smith. International Publishers. https://plato.stanford.edu/entries/gramsci/
- Hall, S., & Grossberg, L. (1986). “On Postmodernism and Articulation: An Interview with Stuart Hall.” Journal of Communication Inquiry, 10(2), 45–60. https://doi.org/10.1177/019685998601000204
- Williams, R. (1973). “Base and Superstructure in Marxist Cultural Theory.” New Left Review, I/82, 3–16. https://newleftreview.org/issues/i82/articles/raymond-williams-base-and-superstructure-in-marxist-cultural-theory
- Williams, R. (1977). Marxism and Literature. Oxford University Press. https://books.google.com/books?q=Raymond+Williams+Marxism+and+Literature+1977
注:本稿は複数の理論的伝統を比較するための分析的総合であり、各思想家が「外部なき変化」という単一理論を共同で提唱したことを意味しない。