「不条理」だけを深遠な真理としてありがたがることについて
文学作品を思想で読むこと自体は悪くない。
カミュの『ペスト』を、不条理の文学として読む。ナチス占領下のレジスタンスの寓意として読む。疫病に抗する人々の姿に、連帯や抵抗の倫理を見る。どれも間違ってはいない。
しかし、その正しさがそのまま作品の価値になるわけではない。
むしろ気になるのは、「不条理」「連帯」「抵抗」といった言葉を取り出しただけで、そこに深遠な真理を見出した顔になる読み方である。
世界は人間の期待どおりにはならない。人生に意味が保証されているわけではない。それでも人は生き、他者と関わり、目の前の苦しみに向き合う。
こういうことは、人生のある時点では非常に大きく響く。青年期に読めば、救われる人もいるだろう。私もその力を否定するつもりはない。
だが、それを哲学の最終到達点のように扱うのは違うと思う。
理解できる思想だけを「深遠」と呼ぶこと
世の中には、カミュの不条理を「世界の真理」としてありがたがる人がかなりいる。しかも、ただ好きだというだけではない。自分はこの深い思想を理解している、だから自分は知的な人間である、という気分までそこに混じっているように見える。
さらに厄介なのは、より突き詰めた哲学思想に出会ったときである。
存在とは何か。世界が現れるとはどういうことか。人間の認識は何を根拠に成り立つのか。主体とは何か。他者とは何か。時間とは何か。
こうした問いを、ニーチェやハイデガーや現象学以後の哲学は、容易には飲み込めないところまで掘り下げている。
しかし、それを理解するのは難しい。
すると難しいものは、存在しないことにされる。「ただの抽象論だ」「屋上屋を架すような話だ」「人間の生から離れている」と言って片づけられる。そして逆に、「思想とは血肉をまとって初めて思想なのだ」と言い、小説のなかに溶け込んだ思想こそが最高の思想だ、と言い出す。
だが、それは小説を評価しているようで、実は自分が理解できる抽象度のところで思考を止めているだけではないか。
小説と哲学は仕事が違う
小説と哲学は、そもそも仕事が違う。
哲学は、概念を極限まで掘る。
小説は、人間が生きる世界を作る。
小説のなかで思想が血肉をまとわなければ、たしかに作品は死ぬ。人物が作者の口になり、会話が主張の運搬装置になり、場面が思想の実演になる。そうなれば小説は急に不格好になる。
しかし、だからといって、哲学が小説より下位になるわけではない。
思想を概念として徹底的に問い詰める仕事と、思想が人間の時間・身体・欲望・沈黙・関係のなかでどう生きられるかを描く仕事は、別の仕事である。
『ペスト』は「不条理の小説」だけではない
カミュの『ペスト』は、まさにその区別を考えるのに向いている。
『ペスト』を「不条理の小説」「レジスタンスの寓意」と言うことはできる。だが、その二つの言葉に作品世界を背負わせるには、あの世界は分厚すぎる。
- 閉鎖された町。
- 暑さ。
- 帰れない人々。
- 離別。
- 待つしかない時間。
- 死者が増える日常。
- 人間が英雄にならず、退屈し、疲れ、慣れ、鈍くなっていくこと。
- それでも職業としての仕事を続ける医者。
- 勝てる見込みがなくても、患者のそばへ行く人間。
これらは「連帯」の具体例ではない。
「人間は連帯すべきである」という命題を説明するために、リウー医師が存在しているのではない。リウーは、疫病に勝てないことを知りながら、目の前の人間を放っておけないという状況のなかで働いている。
その姿を読者が経験したあとで、「これは連帯の話だったのか」と思うのである。
思想は作品の結論ではない。作品の内部に沈んだ重力である。
したがって、カミュを思想家として深遠だと持ち上げることにも、逆に哲学として浅いと切り捨てることにも、少し違和感がある。
カミュは、小説世界に必要な濃度の思想を描いている。
それ以上に哲学的な議論をみっちり展開すれば、小説から概念が浮き上がる。人物より思想が前に出る。町の暑さや、疲労や、沈黙や、離別の時間よりも、「作者が何を主張しているか」が見えてしまう。
小説はそこで壊れる。
サルトルはなぜ不格好に見えるのか
サルトルは、その危険をよく示しているように思う。
サルトルは、自由、選択、責任、他人の視線、政治的立場といった思想を、作品の中核に置こうとした。そして哲学者としても、それらをみっちり論じた。
しかし、みっちり書いたにもかかわらず、その哲学的内容が中学生程度の人生論にしか見えないことがある。
人間は自由である。
選択しなければならない。
選択には責任が伴う。
他人の目によって人は縛られる。
逃げずに自分の生を引き受けなければならない。
もちろん、それらは大切なことではある。しかし、哲学として大きく掲げ、人物や筋や会話にまで背負わせるほどのものかと言われると、どうにも薄い。
しかも、サルトルの場合は、それが小説の内部で前に出すぎる。
人物が人間というより立場になり、会話が会話というより主張になり、世界が生活の場というより思想実験の舞台に見えてくる。作品世界が思想を生み出すのではなく、先に思想があり、そのための人物と舞台が置かれているように見える。
だから不格好になる。
カミュとサルトルの違いは、同じ不条理や抵抗を扱っているかどうかではない。
サルトルは、思想を作品の中心に置き、作品世界に思想を背負わせる。
カミュは、作品世界のなかに思想が溶けている。
カミュの『ペスト』は、不条理やレジスタンスを語るための小説ではない。不条理や抵抗という言葉が、後からしか追いつけないほどの世界を作っている。
だから「これは不条理の小説だ」「これはレジスタンスの寓意だ」と言った瞬間、あの作品の厚みは急に小さくなる。
プルーストを「無意志的記憶」だけで読むこと
同じことはプルーストにも言える。
『失われた時を求めて』を「記憶の文学」「無意志的記憶」「時間の哲学」「芸術家の形成」と要約することはできる。しかも無意志的記憶は、それ自体としてたいへん素晴らしい。感覚と情動が結びついて、過去の自己全体が不意に立ち上がる。現代の脳科学的な感覚から見ても、非常に豊かな現象である。
しかし、プルーストはそれだけではない。
- 田舎で出会った少女への少年期の欲情。
- アルベルチーヌへの初恋。
- スワンの、愛しているのか、自分の頭のなかに作った像に執着しているのか分からない片思い。
- 嫉妬が愛情を所有欲や監視へ変形させていくこと。
- 恋愛のなかに混じる虚栄心。
- 階級意識。
- 会話の嘘。
- 社交界の残酷さ。
- 身体の衰え。
- 人間が相手を愛しているつもりで、実は自分の不安や退屈や想像力に振り回されていること。
プルーストは、記憶の作家である以前に、人間の欲望と関係の巨大な標本を作った作家でもある。
「無意志的記憶」で作品を読むことは、巨大な水槽からマドレーヌだけを掬い上げて、「これが海です」と言うようなものだ。
間違ってはいない。
だが、あまりにも足りない。
文学の価値は、思想の抽出ではない
文学を思想で読むときに必要なのは、思想を発見して満足することではない。
むしろ、なぜこの作品は、その思想だけでは回収できないほどの厚みを持っているのかを見ることだと思う。
思想は、小説を読むための入口にはなる。
歴史的背景を知るための補助線にもなる。
作者が何を問題にしていたかを知る手がかりにもなる。
しかし、小説の価値は思想の抽出にあるのではない。
- 人物がどう造形されているか。
- どんな世界が作られているか。
- 欲望や階級や身体や時間が、どんなふうにからみ合っているか。
- ある場面が、なぜ読者のなかに残るのか。
- なぜ説明されない沈黙のほうが、理念より強く響くのか。
そこに小説の価値がある。
思想は小説の骨にはなれる。
だが、小説を生き物にするのは、思想ではない。
世界の厚みであり、人物の呼吸であり、場面の手触りである。