放送大学の「文学と危機」という講座で、カミュの『ペスト』と不条理についての講義を見た。

内容は間違っていなかった。カミュは不条理を考えた作家であり、『ペスト』にはナチス占領下のフランスやレジスタンスの寓意があり、疫病に抗する人々の姿には連帯の思想がある。そういう説明は、たしかに教科書的には正しい。

しかし、見ていてどうにも薄く感じた。

はじめは、カミュ自身の思想が薄いのではないかと思った。不条理とは、世界には究極的な意味がないのに、人間は意味を求めずにはいられない、その食い違いである。そこから、意味がないからといって自殺や絶望に逃げず、目の前の苦しみに対して行動する、という方向へ進む。

これは思想として見れば、かなり単純である。

存在とは何か。人間は世界をどこまで認識できるのか。自由とは何か。こうした問いを哲学として徹底的に考えるなら、カント、フッサール、ハイデガーなどと比べて、カミュの議論はずっと薄い。哲学者は概念を細かく分け、反論を処理し、前提を掘り返し、論理を組み立てる。小説家が哲学的なものを直接に語りはじめれば、たいてい哲学書の弱い版になってしまう。

カミュの小説の価値はどこにあるのか

では、カミュの小説の価値はどこにあるのか。

私は、小説の価値は思想そのものではなく、人物と世界の造形にあるのだと思う。

小説にしかできないのは、「不条理とは何か」と説明することではない。たとえば、疫病で町が閉鎖され、愛する人に会えなくなり、死者が増え、暑さと疲労が蓄積し、人々の生活が少しずつ壊れていく、その世界をまるごと作ることである。

そこには、医者がいる。彼は英雄になろうとしているわけではない。世界の真理を語ろうとしているわけでもない。患者を救い切れないことを知り、疫病に完全には勝てないことも知りながら、それでも診察し、治療し、死者に向き合う。

その姿は、「人間は連帯すべきである」という思想の具体例ではない。

むしろ、そうしなければならない状況に放り込まれた人間が、勝ち目のない仕事を続けている。その行為そのものが読者に届く。その場面を読むことで、読者はあとから「これは連帯の話だったのか」と気づく。

思想は先に取り出すものではない。

小説を読んでいて本当に残るのは、ある人物がある瞬間に黙ること、誰かの死のあとに妙に明るい日差しが差していること、食卓では何も起きていないのに家族がもう壊れていると分かること、愛しているのに別れを告げること、帰れない町で毎日を過ごすこと、といった場面である。

思想は、その場面が成功したあとで、読者の中に残る影のようなものだ。

思想を抽出するだけの文学講義

文学の講義では、作品から思想を抽出しがちである。「カミュは不条理を示し、そこから連帯へ進んだ」「『ペスト』はレジスタンスの寓意である」と整理する。これは授業としては便利だ。ノートに書ける。試験問題にもできる。文学作品を歴史や思想史のなかに位置づけることもできる。

しかし、その読み方だけでは、小説のいちばん大事な部分が抜け落ちる。

小説を思想の運搬箱として扱ってしまうからである。

本来見るべきなのは、カミュが「不条理」という言葉をどう定義したかだけではない。なぜ町が閉じられなければならなかったのか。なぜ人々はすぐ英雄的にならず、退屈し、疲れ、慣れ、鈍くなっていくのか。なぜ医者たちは勝利を信じずに働くのか。なぜ町の空気そのものが、孤独や不安や鈍い忍耐で満たされているのか。

『ペスト』は、不条理や抵抗についての主張を述べた小説ではない。

不条理と抵抗が、空気や時間や人物の行為として満ちている世界を描いた小説である。

サルトルとの違い

ここで、講義中に持ち出されたサルトルとの違いも気になった。

サルトルは、思想を作品の中核に置いた作家として語られていた。そしてカミュもまた、『ペスト』で不条理やレジスタンス的なものを作品の中心に置いた、と説明されていた。

だが、両者は同じではないと思う。

サルトルの作品には、しばしば先に哲学的・政治的な問いが置かれている。自由、選択、責任、裏切り、階級、戦争。人物はそれぞれ、ある立場や考え方を担って配置される。すると人物が、生きている人間というより、思想のベクトルや実験装置のように見えてくることがある。

読者は人物の苦しみより先に、作者の設計図を見てしまう。

「この状況で自由とは何か」
「この人物は責任から逃げる者か、引き受ける者か」
「この選択はブルジョワ的か、革命的か」

こうした問いが前に出すぎると、小説は不格好になる。世界が生活の厚みを持つ前に、思想実験の舞台として見えてしまう。人物も会話も、思想を運ぶための部品になりやすい。

サルトルには、もちろん場面として強い瞬間もある。『嘔吐』の栗の木の根の場面などは、「存在の偶有性」という哲学概念の説明として読むより、世界が急にぬるりと異物化する感覚そのものとして読んだほうが強い。

だが全体として見れば、サルトルは思想を作品のなかへ入れようとする作家だったように思う。

それに対してカミュは、思想がすでに空気になっている世界を描く。

『ペスト』に不条理や抵抗があるのは、登場人物がそれを解説するからではない。町が閉鎖され、人が死に、愛する者と離れ、何をしても状況が好転せず、それでも誰かが仕事を続ける。その世界の重力自体が、不条理や抵抗でできている。

カミュ自身が、レジスタンスや不条理を意識していたことは否定しない。作品を書く動機のなかに、そうした思想的・歴史的な問題意識はあっただろう。

しかし、「カミュはこの思想を言うために『ペスト』を書いた」と言ってしまうと、作品の成り立ちを取り違える。

彼は思想を伝えるために人物や事件を並べたのではない。思想が自然に発生してしまうほど濃い作品世界を作ったのだと思う。

小説の評価は思想の抽出ではなく、場面にある

小説の評価も、作者の思想をうまく抽出できるかどうかではなく、場面をどれだけ強く作れたかで行うべきだろう。

読者のなかに残るのは、結論ではない。

「不条理とはこういうことである」という命題ではない。

  • ある人物が、疲れ切ったまま患者のそばへ行くこと。
  • 誰かが帰れない町で、待つことしかできないこと。
  • 死者が増えていくなかで、それでも日常の仕事をやめないこと。
  • 勝てる見込みがなくても、目の前の苦痛を放置しないこと。

そういう場面である。

思想は小説の骨にはなれる。しかし、小説を生き物にするのは、人物、描写、世界の設定、時間の流れ、会話の間、物の置かれ方、説明されない沈黙である。

文学作品を読むとは、作者の思想を回収することではない。

その思想が、人物の呼吸や行為や世界の空気のなかで、どれほど本当に生きているかを見ることなのだと思う。