「推しが尊い」「推しは神」。

現代のSNSや日常会話において、息を吐くように使われるこれらの言葉。特定のアイドルやキャラクターに対し、人は惜しみなく時間と金銭を注ぎ込み、その成功に涙する。

その姿だけを見れば、かつての「スター」に対する熱狂と何ら変わらないように思えるかもしれない。しかし、現代の「推し活」の深層を覗き込むと、そこにはかつての熱狂とは決定的に異なる、ある「奇妙な平坦さ」が存在していることに気づく。

私たちは本当に「推し」を絶対的な神として崇めているのだろうか。それとも、もっと別の何かとして彼らを消費しているのだろうか。

垂直の「信仰」から、水平な「利用」へ

かつて、スターやアイドルと呼ばれる存在は、大衆にとって遥か高みで輝く超越的な対象だった。

人々は地上からその輝きを仰ぎ見ることしかできず、そこには圧倒的な「上下関係(垂直性)」があった。大衆は、自分には持ち得ない才能や美貌を持つ絶対者を見上げることで、自らの卑小な現実を忘れ、生きていくための力を得ていたのである。

しかし、現代の「推し」はどうだろうか。

私たちは彼らを「神」と呼びながらも、その実、極めて生活に密着した存在として扱っている。「疲れた日常の癒やし」「明日も仕事を頑張るためのエナジー」。推しは、手の届かない天空の星ではなく、自分の精神を安定稼働させるための身近なインフラとして、生活のルーティンの中にすっぽりと収まっている。

表向きには絶対的な帰依を誓うような修辞(言葉の飾り)を用いながらも、その底流にあるのは「私が選び、私の暮らしを彩るために意味を与えている」という、極めて水平で対等な感覚である。

クリストファー・ラッシュが予言した「ナルシシズムの文化」

この「対象を絶対視せず、自分のために利用する」という現代特有の心性を解き明かす上で、極めて重要な示唆を与えてくれるのが、アメリカの社会学者クリストファー・ラッシュの世界的名著『ナルシシズムの文化』である。

ラッシュは、現代社会において人々が「他者」を純粋な他者として愛する能力を失い、世界を「自分自身を映し出し、自分を慰めてくれる鏡」としてしか認識できなくなっていると指摘した。

ここでいうナルシシズム(自己愛)とは、「自分が大好きだ」といううぬぼれのことではない。共同体や確固たる価値観が崩壊した過酷な社会の中で、傷つくことを極端に恐れるようになった人々が、「自己の絶対的な安全」を守るために外界を遮断し、他者を自分の精神安定のための「セラピー(治療器具)」として消費するようになる病理のことである。

このラッシュの視座を「推し活」に当てはめたとき、事態の輪郭は極めてクリアになる。

現代人は、推しという他者に己の人生を捧げているのではない。「推しを愛し、推しによって感情を動かされている自分」という自己の輪郭を確認し、擦り切れた精神をセラピー的に回復させるために、推しという存在を「対等な機能」として消費しているのだ。

「平坦な祭壇」の前で祈る、孤独な兵士たち

かつての熱狂が、遠い星に身を焦がす自己犠牲であったとすれば、現代の推し活は、手元の灯を絶やさないための「切実な自己保存」である。

だが、これを単なる「冷たい打算」や「自己中心的な消費」と切り捨てるのはあまりに傲慢だろう。なぜなら、私たちがここまで自己の絶対性を死守し、他者を機能として消費せざるを得なくなった背景には、「もはや誰も、自分の精神を守ってくれない」という現代の過酷な孤独があるからだ。

かつて存在した家族、地域社会、あるいは終身雇用といった「個人の精神を支える外部の防波堤」はすべて決壊した。私たちは、終わりのない競争と評価の戦場に、たった一人で立たされている。その計り知れない心理的負荷に耐え、自分一人で正気を保つためには、どうしても「自分を無条件に励ましてくれる外部バッテリー」が必要だった。

だからこそ人は、自らの安全な部屋(防空壕)の中に小さな祭壇を築く。

そこに推しを祀り、時間と金を惜しみなく捧げる。しかし、最後の最後まで、自分の生の主導権(自己の絶対性)だけは手放さない。

絶対的な神に仕えるのではなく、自己を稼働させるための不可欠な要素として、対等な神とともに生きる。

この「平坦な祭壇」こそが、孤立した現代人が明日を生き延びるために編み出した、かなしくも美しい生存戦略なのである。