【第4回】知の爆発と「因果関係の逆転」――副産物としての学習と自己決定の力学

自己の内に「絶対に攻め落とされない城(内的基盤)」を完成させた子どもは、いかなる変容を遂げるのか。結論から言えば、我々が教育現場で目撃するのは、内側からとめどなく湧き上がる純粋な知的好奇心の爆発である。

心理学者エドワード・デシは「自己決定理論(Self-Determination Theory)」の中で、人間の動機づけを「外発的」と「内発的」に分類した。報酬(称賛)や罰(叱責)によって外部からコントロールされる外発的動機づけは、短期的には人を動かすが、長期的には人間が本来持っている「自律性」を奪い、学習意欲を枯渇させてしまう(アンダーマイニング効果)。業績主義的な「条件付きの称賛」がはらむ最大の罪は、まさにこの点にある。大人が「成績を上げるため」という下心を持って与える称賛は、不可避的にコントロールの刃帯びて子どもの自律性を切り刻み、学ぶことの喜びを「評価を獲得するための労働」へと堕落させるのだ。

しかし、「存在(Be)」の絶対的肯定によって、他者の評価から完全に解放された精神空間では、全く異なる力学が作動し始める。

防衛戦に精神的リソースをすり減らす必要がなくなった子どもは、自らの内に蓄積されたエネルギーを、世界の不可解さや未知なるものへと向け始める。哲学者スピノザは、あらゆる存在が自らの存在を維持し、能力を拡張しようとする根源的な衝動を「コナトゥス(Conatus)」と呼んだ。安全基地を確保した子どもが発露する学習意欲とは、まさにこのコナトゥスの純粋な発露である。

彼らにとって、目の前の難解な数式や歴史の事象は、もはや「大人の承認を得るための踏み絵」ではない。それは、自己の知覚と認識を拡張するための、純粋な知的遊戯へと変貌するのだ。「これが知りたい」「この構造を理解したい」という、内側から燃え上がるような渇望。それは時に、効率や損得といった世俗の尺度を軽々と凌駕し、吉田松陰が幕末の志士たちに求めた「狂気」にも似た、圧倒的な熱量を帯びて駆動し始める。

ここに、教育をめぐる「因果関係の完全な逆転」が存在する。

近代以降の教育システムは、学力向上や学習の効率化という「結果」を目的の座に据え、その目的を達成するための手段として、アメとムチ(称賛と評価)を巧妙に操作してきた。だが、人間の精神の構造において、その因果律は全くの「逆」なのである。

学習意欲の向上や、それに伴う成績の上昇、あるいは社会的な能力の獲得といったものは、教育の「目的」ではない。それらはすべて、子どもの存在が絶対的に肯定され、強固な内的基盤が築き上げられた結果として、必然的にこぼれ落ちる「美しい副産物」に過ぎないのだ。我々は、この副産物を手に入れるために、土台であるはずの「自己肯定感」を条件付きの評価で切り売りするという、致命的な本末転倒を犯してきたのである。

学習の真の因果関係を正しく理解したならば、教育者の役割は極めて明確になる。副産物(成績や効率)を直接操作しようとする不遜な態度を捨て、ただひたすらに、土台である彼らの「存在」に透明な水を注ぎ続けることである。

では、この因果関係の逆転を受け入れたとき、大人は具体的にいかなる態度で子どもたちと同じ空間を共有すればよいのか。最終回となる次稿では、教育の場における「権力関係の解体」と、評価なき対話を生み出すための「透明な鏡」としての大人の在り方について論を完結させる。