AIに伝わらないのは、AIが力不足だからとは限らない
「知識の呪い」に気をつけてプロンプトを考える
AIに文章を書かせたり、アイデアを出させたり、資料を整理させたりしていると、こう思うことがある。
「なんか違う」
「そこじゃない」
「そういう意味じゃない」
「こっちの意図をわかってない」
AIを使ったことがある人なら、おそらく一度は感じたことがあるはずだ。
こちらとしては、ちゃんと頼んだつもりでいる。
しかし、返ってきた答えを見ると、微妙にずれている。
文章はそれなりに整っている。
日本語もおかしくない。
一見すると、ちゃんと答えているように見える。
けれど、芯を食っていない。
このとき、人はつい「AIはまだまだだな」と思う。
もちろん、AI側の限界もある。AIは人間ではないし、こちらの事情を勝手に全部理解してくれるわけではない。場合によっては、平気で見当違いのことも言う。
ただ、それだけではない。
AIへの指示がうまくいかない原因の一つに、こちら側の**「知識の呪い」**がある。
自分には当たり前すぎることを、AIにも渡していない
知識の呪いとは、自分がすでに知っていることを、知らない相手の立場から考えにくくなる現象である。
これは人間同士の会話でも起きる。
仕事で「普通に処理しておいて」と言ってしまう。
生徒に「ここは前にやったよね」と言ってしまう。
家族に「それくらいわかるでしょ」と思ってしまう。
しかし、相手にはその「普通」や「前提」が共有されていない。
AIへのプロンプトでも、まったく同じことが起きる。
たとえば、こう頼む。
「この文章をいい感じにリライトして」
人間側の頭の中には、「いい感じ」の中身がある。
少し柔らかくしたい。
でも幼稚にはしたくない。
宣伝臭くしたくない。
ただし読者には刺さってほしい。
論理は残したい。
でも堅すぎる言葉は避けたい。
自分の文体のクセは残したい。
過剰にまとめられると困る。
勝手に構成を変えすぎないでほしい。
そういう条件が、頭の中にはある。
しかし、それをAIに渡していない。
そして、AIが一般的な意味で「いい感じ」に整えてくると、こちらは思う。
「違うんだよなあ」
これはAIが完全に悪いわけではない。
こちらの中にある「いい感じ」の前提を、AIが見える形にしていなかったのである。
AIは空気を読むのではなく、与えられた材料で推測する
人間同士なら、相手との付き合い、表情、声の調子、過去の会話、場の空気から、ある程度の補正が働く。
もちろん人間もよく外すが、それでも相手の文脈を読む力がある。
一方、AIは基本的には、与えられた言葉をもとに推測する。
「この人は、たぶんこういうものを求めているのだろう」と推測して答える。
そのため、指示があいまいなとき、AIは一般的な方向へ寄せやすい。
「ブログ記事にして」と言えば、いかにもブログ記事らしい文章にする。
「わかりやすく」と言えば、少し説明的にする。
「感動的に」と言えば、やや大げさな文章にする。
「プロっぽく」と言えば、整っているがどこか無難な文章にする。
AIは、こちらの内側にある細かな違和感までは最初から知らない。
だから、AIに何かを頼むときは、自分の中の当たり前を少し外に出す必要がある。
これは面倒な作業に見える。
しかし、実はここがAIを使う面白いところでもある。
AIにうまく頼もうとすると、自分が何を求めているのかを、自分で言葉にしなければならない。
つまり、AIプロンプトとは、AIへの命令文であると同時に、自分の考えの棚卸しでもある。
「何を書いてほしいか」より、「何を避けてほしいか」が大事なこともある
AIへの指示では、つい「何をしてほしいか」だけを書きがちである。
「この記事を書いて」
「リライトして」
「要約して」
「タイトルを考えて」
「説明文を作って」
しかし、AIを使っていると、実はそれだけでは足りないことが多い。
大事なのは、何を避けてほしいかである。
たとえば、文章を書かせる場合なら、
「宣伝臭くしない」
「説教っぽくしない」
「箇条書きにしすぎない」
「結論を急がない」
「専門用語だけで押し切らない」
「読まなくても中身が全部わかる紹介文にはしない」
「芯を食いすぎて、本文を読む必要がなくなる説明にはしない」
こういう条件のほうが、むしろ重要なことがある。
人間が何かを頼むとき、頭の中には「これは嫌だ」という感覚がたくさんある。
しかし、その多くは言葉にされない。
なぜなら、自分にとっては当たり前だからである。
「そんな書き方はしないでしょ」
「普通、そこまで説明しないでしょ」
「そこは残すでしょ」
「その言い方だと安っぽくなるでしょ」
そう思っている。
しかし、AIにとって、その「普通」はまだ共有されていない。
だから、AIに頼むときは、希望だけでなく、地雷も渡したほうがいい。
何を入れたいか。
何を入れたくないか。
どこまで変えてよいか。
どこは絶対に残すか。
どんな読後感にしたいか。
どんな文章になると失敗なのか。
このあたりを伝えると、AIの出力はかなり変わる。
悪いプロンプトは、短いプロンプトではない
ここで誤解しやすいことがある。
短いプロンプトが悪いわけではない。
「短く頼むとダメで、長く頼むと良い」という単純な話ではない。
短くても、前提がしっかり入っていればうまくいくことはある。
逆に、長く書いても、肝心な条件が抜けていればずれる。
問題は長さではない。
AIが判断するために必要な前提が入っているかどうかである。
たとえば、
「中学生の保護者向けに、勉強が苦手な子でも入りやすい雰囲気で、宣伝臭を抑えて、安心感が伝わる文章にして」
これはそれほど長くないが、方向性はかなり伝わる。
一方で、
「いい感じに、読みやすく、親しみやすく、魅力的にして」
これは言葉は並んでいるが、判断基準が曖昧である。
読みやすいとは、短文にすることなのか。
親しみやすいとは、くだけた口調にすることなのか。
魅力的とは、感情に訴えることなのか。
それとも、信頼感を出すことなのか。
ここが見えない。
AIは、曖昧な言葉を嫌うというより、曖昧な言葉を「一般的な方向」に補ってしまう。
その結果、こちらの求めるものとずれる。
だから、プロンプトで大事なのは、長さではなく、判断基準の共有である。
「読者」を指定すると、AIの文章は変わる
AIに文章を書かせるとき、とくに大事なのは読者である。
同じテーマでも、誰に向けて書くかで文章はまったく変わる。
たとえば、「知識の呪い」について書く場合でも、
中学生向けに書くのか。
保護者向けに書くのか。
職場の新人教育について書くのか。
noteの読者向けに少しエッセイ風に書くのか。
学習塾のブログとして書くのか。
ビジネス書風に書くのか。
皮肉を入れた軽い読み物にするのか。
それによって、同じ内容でも入口が変わる。
説明の順番も変わる。
例え話も変わる。
使う言葉も変わる。
最後の着地点も変わる。
人間の書き手なら、ここをなんとなく判断している。
しかし、AIに頼むときは、その「なんとなく」を渡したほうがいい。
「誰に読ませる文章か」
これはプロンプトの中でもかなり重要である。
読者が見えると、AIは言葉の強さや説明の深さを調整しやすくなる。
逆に読者が見えないと、AIは無難な一般論に逃げやすい。
「完成形」ではなく「制作方針」を渡す
AIにうまく頼む人は、完成形だけを命令しているのではない。
制作方針を渡している。
たとえば、
「この記事を書いて」
だけではなく、
「最初は日常の違和感から入る」
「中盤で概念を説明する」
「後半で仕事や人間関係に広げる」
「最後は説教ではなく、少し余韻を残して終える」
こう伝える。
これは、AIに文章の設計図を渡しているようなものである。
文章だけではない。
タイトルを考えさせるときも、
「検索向けにわかりやすく」なのか、
「note向けに少し引っかかる感じ」なのか、
「真面目だが堅すぎない」なのか、
「やや毒を含んだタイトル」なのか、
「本文の核心を言い切りすぎない」なのか。
ここを指定すると、かなり違う。
AIは、言われたことだけを機械的にするというより、与えられた方向に沿って大量の候補を組み立てる。
だから、方向を間違えると、立派に間違ったものが出てくる。
これは地味に恐ろしい。
AIの出力は、間違っていても、それなりに整って見える。
だからこそ、最初に渡す制作方針が大事になる。
「AIがわかってくれない」ときは、自分の前提を疑う
AIを使っていて、何度も「違う」と思うことがある。
そのとき、ただ「AIはダメだ」と思うだけではもったいない。
もちろん、本当にAIがダメな場合もある。
事実を間違えることもあるし、文脈を取り違えることもあるし、妙に一般論へ逃げることもある。
しかし、それとは別に、こちらの指示の中に前提の抜けがないかを見てみる価値はある。
自分は何を当然だと思っていたのか。
どの条件を言わなくても伝わると思っていたのか。
何を嫌がっているのに、明示していなかったのか。
どの文体を求めているのに、言葉にしていなかったのか。
どの読者に向けているのに、指定していなかったのか。
ここを見直すと、プロンプトはかなり良くなる。
そして面白いことに、これはAIの使い方だけの話ではない。
仕事の依頼も同じである。
生徒への説明も同じである。
人間関係の会話も同じである。
文章を書くことも同じである。
伝わらないとき、相手だけが悪いとは限らない。
こちらが持っている文脈を、相手に渡していないことがある。
AIは、そのことをかなり露骨に見せてくれる。
ある意味で、AIは「自分の説明不足を映す鏡」でもある。
AIプロンプトは、命令ではなく共同作業の入口である
AIに対するプロンプトというと、命令文のように思える。
「これをしろ」
「こう書け」
「この条件で出せ」
もちろん、それでよい場面もある。
しかし、文章やアイデアを作る場合、プロンプトは単なる命令ではない。
共同作業の入口である。
こちらが材料を出す。
AIが形にする。
それを見て、こちらが違和感を言葉にする。
AIが修正する。
その過程で、こちらの考えもはっきりしてくる。
最初から完璧なプロンプトを書こうとしなくてもいい。
むしろ、一回で完璧に出そうとすると疲れる。
大切なのは、AIの出力を見ながら、自分の中の条件を少しずつ外に出していくことである。
「もっと宣伝臭を消して」
「説明しすぎないで」
「本文を読ませる余白を残して」
「読者を生徒ではなく保護者に変えて」
「学術っぽさを少し残して」
「でも偉そうにはしないで」
「箇条書きではなく散文で」
「結論を急がず、じわじわ進めて」
こうやって調整していく。
これは、AIに指示しているようで、実は自分の感覚を言語化している。
「自分は何を良い文章だと思っているのか」
「どこに違和感を持つのか」
「何を残したいのか」
「何を削られると腹が立つのか」
そういうことが見えてくる。
AIプロンプトは、単なる作業効率化の道具ではなく、自分の判断基準を掘り出す道具にもなる。
知識の呪いに気づくと、AIの使い方は変わる
AIをうまく使うとは、魔法の呪文を知ることではない。
もちろん、便利な言い方や型はある。
しかし、それ以上に大事なのは、自分の中にある前提を、AIが使える形で渡すことである。
自分には当たり前のことほど、プロンプトには書いたほうがいい。
読者。
目的。
避けたい雰囲気。
残したい文体。
変えてよい範囲。
使ってほしい具体例。
使ってほしくない言葉。
最終的に読者にどう感じてほしいか。
こういうものは、自分の頭の中に置いたままではAIには見えない。
AIは空気を読む秘書ではなく、渡された材料から推測する相手である。
だから、材料の渡し方が変われば、返ってくるものも変わる。
知識の呪いとは、自分が知っているせいで、知らない相手の見えなさが見えなくなることだ。
AIプロンプトで言えば、自分の中では見えている完成イメージを、AIも当然見えているものとして扱ってしまうことだ。
しかし、AIには見えていない。
見えていないものは、渡すしかない。
その意味で、よいプロンプトとは、AIを操る呪文ではない。
自分の中にある「当たり前」を、相手にも見える形に置き直す作業である。
そしてそれは、仕事でも、人間関係でも、文章でも、勉強でも、きっと同じなのだと思う。