AIにおんぶされて、知のマッターホルンを登る
AIを使っていて、最近強く感じるのは、長年自分の中にあった疑問が、次々と形を持ちはじめる知的な喜びである。
ぼんやりとは思っていた。
ずっと気にはなっていた。
けれど、自分一人でまとめようとすると、資料を集め、文献を読み、数字を確認し、論理の筋道を立てなければならない。そこまでやろうとすると、途中で手が止まる。
疑問はある。
直感もある。
しかし、それを文章として成立させるところまで行けない。
そういう問いが、自分の中にはいくつも眠っていた。
AIは、そこに手を伸ばしてくる。
こちらが投げた断片的な疑問に対して、関連しそうな概念を並べ、数字を探し、論理の骨格を組み、別の角度から言い換えてくれる。すると、自分の中で長年くすぶっていたものが、急に輪郭を持つ。
「ああ、俺が言いたかったのはこれだったのか」
そう思う瞬間がある。
これはかなり強烈な知的体験である。
たとえば、山に登るようなものだと思う。
それも、近所の丘ではない。知のマッターホルンである。
自分一人では、登山口のあたりをうろうろしていた。
山の形は見えている。
あそこに登れば、何か大きな景色が見えるはずだという予感もある。
しかし、装備が足りない。ルートもわからない。途中で天候が崩れるかもしれない。岩場で足を滑らせるかもしれない。
そこにAIが現れる。
AIは、こちらを背負って、ずんずん登っていく。
「こっちの尾根から行けます」
「ここは数字で固めましょう」
「この比喩は使えます」
「この論点は、少子化ではなく選抜圧の問題です」
そんなふうに、こちらが見ていた山を、実際に登れる山にしてくれる。
もちろん、自分で全部登っているわけではない。
むしろ感覚としては、AIにおんぶしてもらっている。
自分は背中の上で、「そっちじゃない」「そこは大事」「この景色が見たかった」と言っているだけかもしれない。
それでも、山頂に着いたときの景色は、本物である。
長年まとまらなかった疑問が、一本の論として立ち上がる。
なんとなく感じていた違和感が、数字と概念によって説明可能になる。
自分の中にあった直感が、他人にも見せられる文章になる。
これは、知的な喜びとしてかなり大きい。
ただし、ここには危うさもある。
AIにおんぶされることに慣れすぎると、自分の足で歩いているつもりになってしまう。
本当はAIが出した道筋なのに、自分が最初から考えていたかのように錯覚する。
数字が出てくると、それだけで論が正しいように見える。
きれいな文章になると、多少あやしい部分まで説得力を持ってしまう。
これは危ない。
AIは、非常に有能な案内人である。
しかし、案内人が常に正しいとは限らない。
間違った道を、堂々と示すこともある。
存在しない資料を、あるように見せることもある。
こちらの言いたいことに合わせすぎて、都合のよい論理を組んでしまうこともある。
だから、AIと一緒に山に登るなら、自分の側にも自戒が必要になる。
これは本当に事実なのか。
数字の出どころは確かか。
自分に都合のいい結論へ流れていないか。
反対側から見ると、どう見えるのか。
この文章は、わかった気にさせるだけのものになっていないか。
そう問い直す必要がある。
AI時代の知的作業は、単に「AIに答えを出してもらう」ことではないと思う。
むしろ、AIによって、自分の中にあった問いを遠くまで運んでもらう作業に近い。
AIは、こちらの思考を代行するだけではない。
こちらの思考の到達可能距離を伸ばす。
今までなら、途中で疲れて引き返していた問いがある。
文献をそろえる前に面倒になっていた問題がある。
数字を集める段階で止まっていた直感がある。
それらが、AIの力を借りることで、山頂近くまで運ばれていく。
そこで初めて、自分は景色を見る。
「ああ、この問題はこういう構造だったのか」
「この違和感は、こういう言葉で説明できるのか」
「長年引っかかっていたのは、ここだったのか」
その瞬間が面白い。
ただ、その面白さに酔いすぎてはいけない。
AIにおんぶされて登った山を、自分一人で制覇したように語ってはいけない。
AIが示した景色を、検証せずに真理だと思ってはいけない。
知的快感が強いからこそ、危うさも強い。
AIは、知の登山装備を一気に高性能にした。
靴も、ロープも、地図も、酸素ボンベも、ずいぶん強力になった。
しかし、どの山に登るのか。
登って何を見るのか。
その景色をどう受け止めるのか。
そして、下山後にそれをどう語るのか。
そこは、やはり人間の側に残っている。
AIにおんぶされながら、知のマッターホルンを登る。
それは、たしかに楽しい。
長年の疑問が解けていく。
自分の中の曖昧な直感が、言葉と数字を得て立ち上がる。
今まで見えなかった景色が見える。
この喜びは、かなり深い。
けれど同時に、こうも思う。
登頂の興奮に酔いすぎてはいけない。
山頂で見えた景色が本物かどうか、もう一度地図を確認しなければならない。
足元の岩が崩れていないか、確かめなければならない。
AI時代の知的喜びとは、たぶんこの二つが同時にあることなのだ。
知の山に、以前よりずっと速く登れるようになった喜び。
そして、その速さゆえに、踏み外す危うさを忘れてはいけないという自戒。
AIにおんぶされて登る知のマッターホルン。
その背中の上で、ただはしゃぐだけでなく、地図を見て、足場を見て、景色を疑いながら、それでも登っていく。
そのあたりに、これからの知的作業の面白さがあるのだと思う。