完璧のぺき坊と目の前のドーナツ
観察室の防音ガラス越しに
幼稚園の防音ガラス越しに、その小部屋はあった。
室内には、2人の幼児と、それぞれの前に置かれた1個のドーナツ。
大人の一人が、部屋のスピーカーを通して子どもたちに告げる。
「今すぐそのドーナツを食べていいよ。でも、大人が戻ってくるまで我慢できたら、明日はもっと大きくて美味しいケーキを買ってあげるからね」
大人が部屋を出た。15分のカウントダウンが始まる。
一人の子どもは、じっと天井を見上げ、小さな手を膝の上で握りしめて耐えていた。
しかし、もう一人の子どもは、大人の足音が廊下に消えた瞬間、迷うことなく右手を伸ばした。ドーナツを掴み、大きな口でバクリと頬張る。甘い砂糖がその頬を白く汚した。
観察室の大人たちは、手元のタブレットに視線を落とし、満足そうに深く頷いた。
「やはり、顕著な差が出ましたね」
「ええ。最後まで我慢できるあの子は、自己統制力、いわゆる非認知能力が非常に高い。将来が楽しみです」
「一方で、すぐに食べてしまった子は我慢が足りない。内面のこころの力が未熟なのでしょう。将来の社会的成功が少し心配ですね」
大人たちが「子どもの見えない心」を分析し、得意げに未来の通信簿をつけ始めた、その時だった。
観察室の自動ドアが、プシューと音を立てて開いた。
入ってきたのは、大人たちの腰ほどの高さしかない、一人の幼児だった。
なぜか、身体のサイズに全く合っていない小さな白衣を引きずり、片手にはプラスチックのコップをしっかりと握りしめている。そこには、なぜか髭を蓄えた近代言語学者「フェルディナン・ド・ソシュール」の渋い肖像画がデカデカとプリントされていた。
コップの中の、ピンク色で甘ったるい「いちごミルク」をストローでチビチビとすすりながら、その幼児は大人たちを冷ややかな目で見上げた。
「……ちがうでつ」
幼い発声だった。しかし、その場にいた全員の動きがピタリと止まった。
大人たちが一斉に振り返る。
「え?」
白衣を着た幼児——この界隈で「完璧のぺき坊」の二つ名(ふたつな)で呼ばれるその子は、ソシュールのコップをジャラリと揺らし、ストローを口から離して言った。
「その子は、がまんできない子じゃないでつ。約束が守られない不安定な世界の中で、極めて合理的に行動しているだけでつ」
観察室の空気が一瞬で凍りついた。大人の一人が狼狽しながら反論する。
「な、何を言っているんだい? 目の前の誘惑に負けてすぐ食べたんだから、自己統制力の欠如、つまりメンタルの問題だろう?」
「大人はすぐに、見えない『こころ』のせいにして問題を片付けたがるからダメでつ」
ぺき坊はため息をつき、白衣のポケットに小さな手を突っ込んだ。
「あの子の物理的な行動(すぐ食べる)の履歴を、時系列で正しく分析するべきでつ。昨日も、大人は『あとでおもちゃを買ってあげる』って言ったでつ。でも結局、買ってくれなかったでつ。先週も、あの子は大切にしていたおやつを、お兄ちゃんに力ずくで取られたでつ。あの子の家では、美味しいものは常に早い者勝ちという物理ルールで世界が回っているでつ」
ぺき坊の小さな影が、蛍光灯の光に長く伸びる。
「『15分待てば、明日はもっといいケーキがもらえる』? そんなの、あの子の生きてきた世界ではただの絵空事でつ。先ほど約束を破った大人が、明日本当にケーキをくれる保証なんてどこにもないでつ。大人の嘘に騙されて、目の前にある確実なカロリー(ドーナツ)まで失うくらいなら、今すぐ口に放り込む方が、生存戦略として圧倒的に賢い判断でつ」
大人たちは誰も言葉を発せられず、ただ口を半開きにして固まっていた。
「つまりあの子は、欲望に負けたのではないでつ。自分が置かれた『信頼できない環境』を正しく学習し、最もリスクの低い、最適な物理行動を選択しただけでつ。逆に、ずっと待てているあの子は、認知能力が高いからではなく、『大人は必ず約束を守る』という、恵まれた安定した環境のぬるま湯に浸かっているから待てるに過ぎないでつ。環境の差を、個人のメンタルの差にすり替えるのは、大人の怠慢でつ」
ぺき坊はソシュールの肖像画が描かれたコップを高く掲げ、ストローを大人たちに向けた。
「子どもの行動を直したければ、見えない内面を説教するな。大人が『約束を100%守るという物理的な環境』を先に構築しろ。それがない世界での『我慢』は、ただのギャンブルでつ」
ぺき坊はそれだけ言うと、再びストローをくわえ、ズズズといちごミルクを鳴らしながら、白衣の裾を揺らして観察室を去っていった。
残された大人たちは、自分たちが勝手につくりあげていた「非認知能力」という曖昧な言葉のハリボテが、幼児の圧倒的な正論によって粉々に粉砕されたことを知り、ただ呆然と、ガラスの向こうの空っぽになったドーナツの皿を見つめ続けるしかなかった。