業績主義への静かなる抗いと「存在の全肯定」による内的基盤の獲得(1/5回)
【第1回】業績主義(メリトクラシー)の臨界点と「存在」の忘却――教育空間における効率化の呪縛
現代の教育現場に立つと、教室という空間がいかに精巧な「効率化の装置」として機能しているかを痛感せざるを得ない。生徒たちの口から「ここだけやればテストに出ますか」「この問題をもっと早く解く裏技はないですか」といった問いがごく自然に発せられるとき、我々が直面しているのは、単なる学習態度の問題ではない。それは、現代社会を覆い尽くす経済合理性が、子どもたちの精神構造の深部にまで浸透しきっているという、一つの社会病理的な兆候である。
「タイパ(タイムパフォーマンス)」という本来は市場経済における投下資本に対する回収効率を示す用語が、あろうことか教育や人間の成長という文脈において無批判に流通している。この現状は、ノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・ベッカーらが提唱した「人的資本論(Human Capital Theory)」の極北と言えるだろう。人間を、投資によって価値を高めるべき「資本」と見なし、教育をそのための効率的な投資行動と定義するこのパラダイムは、必然的に「結果」と「効率」による人間の序列化を正当化する。
こうした社会構造を背景に持つ我々大人は、無意識のうちにマイケル・ヤングが名付けた「業績主義(メリトクラシー)」の代弁者として振る舞ってしまう。「テストで100点を取れて素晴らしい」「人より早く正解にたどり着けて優秀だ」——我々はこれを純粋な愛情や、あるいは学習効率を上げるための正当な動機付け(モチベーション)のツールであると信じて疑わない。
しかしながら、人間性心理学の祖であるカール・ロジャーズが指摘した「価値の条件づけ(Conditions of Worth)」の観点から見れば、こうした称賛は残酷なまでの選別機構として機能する。行動や結果(Do)に紐付いた条件付きの肯定を与えられ続けた人間は、自らの内に「このように振る舞わなければ、自分には価値がない」という自己検閲のシステムを内面化させていくからだ。
「結果を出せる自分」にしか生存権が与えられないと感じている子どもたちは、常に「いつか見捨てられるかもしれない」という実存的な不安(angst)に晒されている。彼らが大人の期待に応えようと必死に机に向かうとき、そこにあるのは知的な好奇心などではない。自己の存在価値が剥奪される恐怖から逃れるための、絶望的な防衛戦である。彼らは「優秀な生徒」という鎧を着込み、息を止めて、ただ能力という流動的な指標の波間を溺れないように泳ぎ続けているに過ぎないのだ。
能力主義的な称賛は、一時的なタスク処理の効率を上げるドーピングとしては機能するかもしれない。だが、その代償として子どもたちから「ただ、自分はここにいていいのだ」という根源的な安心感を奪い去っていく。
真の教育的介入とは、能力の向上という二次的な結果(副産物)を目的化し、効率よく知識を注入することではない。そうではなく、他者の評価や社会の尺度によって決して毀損されることのない「自己存在の内的基盤」を、彼らの精神の深層にいかにして構築するかという、極めて存在論的(ontological)な問いに回帰することである。
我々は今、「何ができるか(Do)」で人間を計量する社会の重圧から子どもたちを保護し、「ただ、そこにいること(Be)」を無条件に承認するという、教育空間の根本的なパラダイムシフトを迫られている。