【第2回】「為すこと(Do)」の限界と「存在(Be)」の無条件肯定――道具的理性からの解放

前回の考察において、現代の教育空間が「効率」と「結果」という業績主義(メリトクラシー)に深く侵食され、子どもたちが自己の存在意義を懸けた苦しい防衛戦を強いられている構造を指摘した。この見えない窒息状態から彼らを解放するためには、我々大人の側が、人間を評価するパラダイムそのものを根本から転換させねばならない。すなわち、「為すこと(Do)」に対する条件付きの評価から、「存在(Be)」に対する無条件の肯定への移行である。

社会心理学者エーリッヒ・フロムは名著『持つことあるいはあること』の中で、人間の生存様式を「所有(Having)」と「存在(Being)」の二つに対置させた。現代の教育現場にこの概念を援用するならば、学力や点数、あるいは「素早くタスクを処理する能力」といったものはすべて、外部から獲得し「所有」すべき属性(Do/Having)である。我々はしばしば、子どもが有益な属性を獲得した際にのみ称賛を与える。しかし、この「Do」に依存した自己評価は極めて脆弱だ。なぜなら、より上位の能力を持つ者が現れた瞬間、あるいは自らの能力が失われた瞬間に、その人間の存在価値すらもが根底から瓦解してしまうからである。

ここで我々は、教育現場において無自覚に蔓延している「褒める」という行為の欺瞞を鋭く告発しなければならない。現代の教育技術(ペダゴジー)において、「褒める」ことは往々にして、学習効率を最大化し、望ましい行動を強化するための行動主義的(B.F.スキナー的な)オペラント条件づけのツールとして矮小化されている。つまり、「褒めれば伸びる」という言説の背後には、「大人の都合の良い方向へ、効率よく子どもを操作・駆動させたい」という道具的理性(instrumental reason)が透けて見えるのだ。

しかし、真に子どもの魂を育むアプローチは、そのような功利主義的な動機付けの技術とは対極にある。我々が実践すべきは、学習効率向上のための手段としての称賛を厳しく退け、子どもの「存在そのもの(Be)」に対する絶対的な肯定を復権させることである。

「今日もこの教室に足を運んでくれた事実」や「今、目の前で呼吸し、命を燃やしているという現象」そのものを、いかなる評価の尺度も交えずにただ承認する。哲学者マルティン・ブーバーが説いた「我と汝(I and Thou)」の人間関係のごとく、相手を操作可能な「対象(それ)」としてではなく、代替不可能な「人格」として畏敬の念をもって向かい合うこと。これこそが「存在を褒める(肯定する)」という行為の真髄である。

この「存在の絶対的肯定」というシャワーを浴び続けた子どもの内面には、やがて劇的な変化が訪れる。他者の評価やテストの点数といった外部の流動的な指標に依存しない、「自分はただここに在るだけで、いかなる条件も必要とせずに尊いのだ」という強固な『内的基盤』が形成され始めるのである。精神分析医ドナルド・ウィニコットが、乳幼児の健全な自己形成に不可欠だとした「抱える環境(Holding Environment)」の概念を、より実存的な次元へと拡張したものと言えよう。

能力や効率といった「Do」の鎧を剥ぎ取られ、剥き出しの「Be」を丸ごと受け止められたとき、子どもたちは初めて他者の顔色を窺うための浅い呼吸をやめ、自らの生命の底から深く息を吸い込むことができる。

「無条件に肯定などすれば、彼らは現状に甘んじ、成長への努力を放棄してしまうのではないか」。そのような反論を投げかける者は、人間の持つ本源的な生命力と、成長の真のメカニズムをいまだ理解していない。次稿では、この「強固な内的基盤」が完成した精神の内部で何が起こるのか、そしてなぜ彼らが自発的に外の世界へと踏み出していくのかという、自己実現の力学について論を進めていく。