社会心理学という名前は、最初から少し危ない。

「社会」なのか。
「心理」なのか。

どちらを見ているのかが、名前の中ですでに揺れている。

もちろん、社会心理学は単なる「集団心理」ではない。ここを間違えると、一気に話が雑になる。

社会心理学は「社会を通過した個人心理」を見る

社会心理学の基本は、社会的状況の中に置かれた個人の心理や行動を研究することにある。

つまり、対象はあくまで個人である。

ただし、その個人は、ひとりで部屋の中に閉じこもっている抽象的な個人ではない。

他者の目がある。
集団の規範がある。
役割がある。
権威がある。
同調圧力がある。
期待がある。
評価がある。
制度がある。

そのような社会的状況の中で、個人の認知、感情、判断、行動がどう変わるのかを見る。

だから社会心理学は、心理学である以上、基本単位はまだ「個人」である。

けれども、その個人はすでに社会に触れられている。

ここが、普通の認知心理学や発達心理学とは違うところである。

たとえば同調実験を考える。

そこでは、研究対象は「集団そのもの」ではない。集団の圧力を受けた個人の判断である。

ミルグラムの服従実験でも同じである。

研究対象は、「権威という制度」そのものではない。権威的状況の中で、個人がどこまで命令に従うのかである。

つまり社会心理学は、社会そのものを対象にしているように見えて、実際には、社会を通過した個人心理を見ている。

これが、社会心理学のかなりきれいな位置だと思う。

心理学から社会学へ足が出る瞬間

ところが、ここから一歩進むと、急に心理学から社会学へ足が出る。

たとえば、こういう問いが出てくる。

そもそも、その集団の規範はどのように作られるのか。
その制度は、なぜそのような主体を作るのか。
その場で共有される意味秩序は、どのように構成されるのか。
感情は、本当に個人の内面にあるものなのか。
それとも、職業的役割や組織によって管理されるものなのか。

こうなると、もう心理学だけでは収まりにくい。

ここで、パノプティコンや感情労働のような議論が出てくる。

パノプティコンは単なる「緊張」の話ではない

フーコーのパノプティコンは、単に「監視されると人は緊張する」という心理学ではない。

それなら、不安や緊張やストレス反応の話で済む。

しかしパノプティコンの問題は、そうではない。

監視される可能性がある構造の中で、個人が自分自身を監視する主体として形成される。

ここが問題である。

これは心理の話でもある。
しかし、心理学だけでは扱いにくい。

なぜなら中心にあるのは、個人の心の中の反応ではなく、監視装置、制度、権力、身体、規律の配置だからである。

感情労働も、心理学だけでは収まらない

感情労働も同じである。

「接客業の人はストレスを感じる」というだけなら、心理学的な話である。

不快な感情を抑える。
笑顔を作る。
自分の感情と表に出す感情がずれる。
その結果、疲弊する。

これだけでも十分に心理学の問題になる。

しかしホックシールドが見たのは、それだけではない。

感情そのものが労働の一部として管理され、商品化される。

ここに問題の中心がある。

笑顔や親切さや明るさが、個人の性格ではなく、職業的に求められる振る舞いになる。
感情を整えることが、仕事の中に組み込まれる。
自分の内面まで、労働過程の中で扱われる。

これは感情の話である。
だから心理学に近い。

しかし同時に、労働、資本主義、組織、ジェンダー、サービス産業の話でもある。
だから社会学にも深く関わる。

このあたりで、心理学と社会学の境界はかなりにじむ。

境界がにじむからこそ、足場を意識しなければならない

ただし、ここで大事なのは、にじんでいるから何でも混ぜてよい、ということではない。

むしろ、にじんでいるからこそ、足場を強く意識しなければならない。

自分はいま、個人心理を説明しているのか。
それとも、社会的構造や意味秩序を説明しているのか。

この問いを持たずに進むと、ただの混同になる。

社会心理学を入口にすると、ここで迷いやすい。

社会心理学は、心理学っぽい言葉で社会を語れる。
しかも、社会学っぽい言葉で心理も語れる。

一見すると、非常に便利である。

しかし、その便利さが危ない。

大学生がやりがちな混同

たとえば卒論で、こう書いたとする。

「生徒の自己肯定感は、学校文化や家庭環境によって形成される。」

一見、よさそうに見える。

いかにも教育について考えている感じがする。
心理も入っている。
社会も入っている。
問題意識もあるように見える。

しかし、心理学の先生から見れば、すぐに疑問が出る。

自己肯定感をどう定義するのか。
どう測定するのか。
個人差の変数としてどう扱うのか。
学校文化や家庭環境が影響するというなら、その因果関係をどう検証するのか。

一方、社会学の先生から見れば、別の疑問が出る。

学校文化とは何か。
家庭環境という言葉で何を指しているのか。
その生徒が置かれた社会的位置や意味世界をどう記述するのか。
自己肯定感という心理語を使うことで、社会的な問題を個人内面の問題に還元していないか。

つまり、両方から怒られる可能性がある。

これは笑い話ではなく、かなり重要な問題である。

境界の上に立つことと、ごちゃ混ぜにすることは違う

社会心理学を入口にすると、心理学と社会学の境界が見えにくくなる。

なぜなら社会心理学は、まさにその境界の上に立っているからである。

けれども、境界の上に立つ学問は、境界を消してよい学問ではない。

むしろ、境界がどこにあるかを知ったうえで、その境界上を歩く学問である。

ここが分からないと、ただの混同になる。

社会心理学は、心理学と社会学の「あいだ」にある。

しかし、「あいだ」にあることと、両者をごちゃ混ぜにすることは違う。

心理学として社会心理学をやるなら、社会的状況が個人の認知、感情、行動にどう影響するのかを見る。

社会学として社会心理学的な問題を扱うなら、個人の心理に見えるものが、いかなる相互作用、制度、役割、意味秩序の中で作られているのかを見る。

同じ「不安」でも、心理学と社会学では問い方が違う

同じ「不安」でも違う。

心理学なら、不安の強さ、認知的評価、ストレス反応、行動への影響を見る。

社会学なら、なぜその場面で不安が生じるのか、誰が不安を感じる位置に置かれるのか、その不安がどのような規範や評価構造によって作られるのかを見る。

同じ「やる気」でも違う。

心理学なら、自己効力感、内発的動機づけ、達成目標、原因帰属を見る。

社会学なら、その子にとって勉強がどのような意味を持つのかを見る。

家庭、学校、地域、部活、進路秩序の中で、勉強することがどのように位置づけられているのかを見る。

だから社会心理学は、初心者には危ない。

魅力的だが危ない。
分かった気にさせるが危ない。
心理と社会の両方を語れる気がするが、方法論の足場を間違えると一気に崩れる。

社会心理学は悪い入口ではない。危ない入口である

もちろん、これは社会心理学が悪いという話ではない。

むしろ逆である。

社会心理学は、人間を「内面だけ」で見ることの限界を教えてくれる。
同時に、人間を「構造だけ」で見ることの限界も教えてくれる。

人は、社会の中で感じ、考え、判断する。

他人の目があるから緊張する。
集団の規範があるから同調する。
役割を与えられるから、その役割にふさわしい感情を持とうとする。
評価される場に置かれるから、自分自身を評価するようになる。

このように、心は社会と無関係にあるわけではない。

しかし、だからといって、心を社会に完全に溶かしてしまってよいわけでもない。

その人が感じた不安は、たしかにその人の不安である。
その人が失った自信は、たしかにその人の経験である。
その人が抱えた恥ずかしさや怒りや無力感は、単なる構造の反映ではない。

個人の心はある。

けれども、その心は社会に触れられている。

この二重性を扱うところに、社会心理学の難しさがある。

そして、社会学と心理学の境界を考えるおもしろさも、そこにある。

分けてから、もう一度つなげる

心理学は、個人の心の動きを見る。

社会学は、その心が生まれる社会的な文脈を見る。

社会心理学は、社会的状況の中で、個人の心や行動がどう変わるかを見る。

この三つは似ている。
しかし、同じではない。

似ているからこそ、混同しやすい。

同じではないからこそ、分けて考える必要がある。

そして、分けたうえで、もう一度つなげて見る必要がある。

ここが大事である。

分けずに混ぜると、ただの曖昧な話になる。
分けたまま戻ってこないと、現実から離れた話になる。

心理学と社会学の境界に立つとは、たぶんそういうことなのだと思う。

境界を消すことではない。

境界を見ながら、その上を歩くことだ。

そのあいだにあるものを見る

社会心理学は、その意味で、かなり危ない入口である。

しかし、危ない入口だからこそ、そこをきちんと通ると、人間を見る目はかなり鍛えられる。

人の心は、個人の内側だけにあるわけではない。

けれども、社会構造だけを見ても、その人の心の震えは見えない。

そのあいだにあるものを見る。

それが社会心理学のむずかしさであり、おもしろさなのだと思う。