ジニ係数は、所得格差を測るための非常に優れた指標です。0に近いほど平等で、1に近いほど不平等を示すこの数字は、社会の富の偏りを可視化し、税制や再分配の議論をする上で強力な武器になります。

しかし、これほど有用な指標であるにもかかわらず、提示された数字が私たちの「生活実感」と大きくずれてしまうことがしばしばあります。

それは、ジニ係数という指標そのものに欠陥があるからではありません。問題は、その数字を「どの範囲」に対して当てはめるかという、使い手の切り取り方にあります。

人間は「全国平均」の中では生きていない

全国のジニ係数を出すと、東京の富裕層、地方都市の会社員、首都圏の非正規労働者、農村の高齢者が、すべて一つの分布グラフの中に並べられます。国全体の統計としてはそれで正解です。

しかし、生身の人間は「全国平均」という空間で暮らしているわけではありません。

人間が生き、生活水準を実感する場所は、学校、職場、近所のスーパー、通学圏、医療圏、地域の家賃や賃金水準といった「生活圏」の中です。

たとえば、東京のような大都市を切り取ってジニ係数を見るなら、これは極めて鋭い意味を持ちます。

大都市には病院も、塾も、大学も、文化施設も、交通機関もすべて揃っています。それなのに、所得が低いために病院に行けない、塾の月謝が払えない、大学進学を諦める。同じ街の同じ空間に住んでいるのに、利用できる都市の範囲がくっきりと分断されている。

つまり、都市の貧困の本質は「すぐ近くにあるのに、所得の壁によって手が届かない」ことです。この生活圏が共有されている空間での残酷な格差を可視化するには、ジニ係数は最高の指標になります。

「近くにあるのに届かない」と「そもそも近くにない」

ところが、これを全国一律のジニ係数で丸めてしまうと、途端に現実が見えなくなります。

地方に行けば、そもそも病院が遠い、公共交通が弱い、高校の選択肢がない、車がなければ生活が成り立たないといった物理的な壁が存在します。

もちろん、車を持てるか、遠くの大学へ進学する仕送りを出せるかという点で所得は大きく関係しますが、「地域に資源がない」という問題は、単なる所得分布のグラフだけでは捉えきれません。

都市の貧困が「近くにあるのに届かない」問題であるのに対し、地方の貧困はそれに加えて「そもそも近くにない」という問題を抱えています。性質の違うこの二つを「全国のジニ係数」という一つの数字だけで語ろうとするから、問題の根っこが見えなくなるのです。

指標を「生活圏」に引き戻す

包丁が悪いのではありません。魚をさばく包丁で、畳を切ろうとするからおかしくなるのです。

ジニ係数を使うときに最も大切なのは、「どこを一つの社会として切り取るか」という視点です。

全国を一つにするのか。東京都なのか。

あるいは、学区、医療圏、通学圏なのか。

学区で切れば、子どもの教育環境の差が見えてきます。医療圏で切れば、受診しやすさの差が見えてきます。通学圏で切れば、進学選択の差が見えてきます。

どこに物差しを当てるかによって、浮かび上がる問題はまったく異なります。指標は万能ではありませんが、対象である生活圏に正しく当てれば、これほど鋭いものはありません。

この視点は、かつての「一億総中流」を振り返る際にも重要です。

1970年代の日本のジニ係数が低かったからといって、それだけで「みんなが中流意識を持っていた」とは言い切れません。当時の生活実感の背景には、地域コミュニティの横並び感、農家の自給、親族の支え、そして何より「現代よりも消費の対象、つまり欲望が少なかったこと」などが複雑に絡み合っていました。

全国の所得分布がなだらかだったことと、人々の生活実感は、必ずしもイコールではないのです。

数字に生活のすべてを語らせない

だからといって「ジニ係数など意味がない」と指標を投げ捨てるのは間違いです。

本当に必要なのは、数字を捨てることではなく、数字を人間の生活圏に取り戻すことです。

人間がどこで暮らし、何と比べ、すぐ近くにある何に手が届かず、何を諦めているのか。その生々しい生活の文脈を見ないまま、数字の上下だけで社会を語ろうとすることが間違っているのです。

格差は、全国分布のグラフの中にあるのではありません。

人が実際に暮らし、比べ、選び、諦める「生活圏」の中にこそ現れます。

ジニ係数は、正しく使えば問題の根を鮮やかに切り取りますが、間違って使えば問題の根を覆い隠してしまいます。経済指標が悪いのではありません。私たちの「生活世界を切り取る目」が問われているのです。