ペキ太郎、ジニ係数を大いに語る
平日お昼の生放送、情報番組『ひるどきワイド』のスタジオ。
コメンテーター席の中央では、有名大学の経済学教授が、したり顔で解説棒を握っていた。
「……というわけで、こちらのフリップをご覧ください。日本の『全国ジニ係数』の推移です」
教授が解説棒でフリップを叩く。そこには、なだらかな横ばいを示す折れ線グラフが描かれていた。
「0に近いほど平等、1に近いほど不平等を意味するこのジニ係数ですが、ご覧の通り、日本は諸外国と比べても極端な格差社会にはなっていません。つまり、昨今の若者や現役世代が『生活が苦しい』『格差が広がっている』と騒ぐのは、一種の感情的な錯覚であり、マクロ経済の視点から見れば……」
「その数字の使い方、完璧に間違っているッ!!」
スタジオの空気を切り裂くような大音声。
次の瞬間、カメラの画角外から、パリッとしたスーツを着こなした一人の男が猛然と乱入してきた。
「完璧のペキ太郎」である。
「な、なんだ君は!」
驚いて腰を浮かせる教授。
スタジオの隅から、カンペを持った若手ADが血相を変えて飛び出してきた。
「ちょっと! 誰ですかあんた! 本番中ですよ、早く出てください!」
ADがペキ太郎の腕を力ずくで引っ張ろうとする。MCの男性アナウンサーも「えー、少々お待ちください、現在スタジオに……」と冷や汗を流しながら進行を止めようとした。
その時、スタジオの天井スピーカーから、副調整室にいるプロデューサーのダミ声が飛んだ。
『待て! AD止めろ! その男を引っ張るな!』
「えっ、プロデューサー!?」
『ネットの視聴数がバカみたいに跳ね上がってる! 面白い、そいつに喋らせろ! 2カメ、男の顔をアップで抜け!』
プロデューサーの鶴の一声で、ADはピタッと動きを止め、そそくさとカメラの裏へ隠れた。
静まり返るスタジオ。赤ランプの点灯したカメラが、ペキ太郎を真っ直ぐに捉える。
ペキ太郎はスーツのシワを完璧な動作で払い、教授から解説棒を奪い取ると、全国ジニ係数のフリップをピシリと指した。
ペキ太郎、全国ジニ係数を斬る
「教授。あなたはジニ係数という素晴らしい『包丁』を持っていながら、それで『畳』を切ろうとしている。だからおかしなことになるのです」
「な……なんだと? ジニ係数は所得格差を測る世界標準の指標だぞ!」
「ええ、その通り。ジニ係数そのものは完璧な指標です。税制や再分配、富裕層への所得集中を見る上で、これほど鋭い武器はない」
ペキ太郎はカメラに向かって、滔々と熱弁を振るい始めた。
「問題は、あなたがその数字を『全国平均』という枠組みで使っていることです!
いいですか。全国のジニ係数を見るとき、東京の高所得者、地方都市の会社員、農村の高齢者、首都圏の非正規労働者は、すべてこの一つの分布の中に並べられます。統計としてはそれでいい。
しかし! 生身の人間は『全国平均』という架空の空間で暮らしているわけではない!」
ペキ太郎はスタジオの隅にあった白紙のフリップを引き寄せ、黒のマジックペンで「生活圏」と大きく書き殴った。
人間は「生活圏」の中で格差を感じる
「人間が生き、生活水準を実感する場所は、学校、職場、近所のスーパー、通学圏、医療圏といった『生活圏』の中です!
たとえば、東京のような大都市を切り取ってジニ係数を見るなら、これは極めて鋭い意味を持つ。大都市には病院も塾も大学も、交通機関もすべて揃っている。それなのに、所得が低いために病院に行けない、塾の月謝が払えない。同じ街に住んでいるのに、利用できる都市の範囲がくっきりと分断されている。都市の貧困とは『すぐ近くにあるのに、所得の壁によって手が届かない』ことです!」
息を呑むMC。ひな壇のタレントたちも、ペキ太郎の完璧な論理に引き込まれ、真剣な顔で頷き始めている。
「ところが!」
ペキ太郎はフリップをバンッと叩いた。
「これを『全国のジニ係数』で丸めてしまうと、途端に現実が見えなくなる!
地方に行けば、そもそも病院が遠い。公共交通が弱い。高校の選択肢がない。車がなければ生活が成り立たない。都市の貧困が『近くにあるのに届かない』問題であるのに対し、地方の貧困はそれに加えて『そもそも近くにない』という問題を抱えている!
性質のまったく違うこの二つを、全国のジニ係数という一つの数字だけで語ろうとするから、問題の根っこが見えなくなるのです!」
「そ、それは……」
教授は反論しようと口を開いたが、言葉が出てこない。額からはタラリと汗が流れている。
どこを一つの社会として切り取るか
「ジニ係数を使うときに最も大切なのは、『どこを一つの社会として切り取るか』という視点です。
学区で見るのか。医療圏で見るのか。通学圏で見るのか。どこに物差しを当てるかによって、浮かび上がる問題はまったく変わる。
それを無視して、全国分布のグラフだけを見て『錯覚だ』と切り捨てるのは、数字に生活のすべてを語らせる怠慢です!」
ペキ太郎はカメラのレンズを真っ直ぐに見据え、視聴者に向かって語りかけた。
「格差は、全国分布のグラフの中にあるのではありません。
人が実際に暮らし、比べ、選び、諦める『生活圏』の中にこそ現れます。
ジニ係数は悪くない。悪いのは、人間がどこで暮らし、何に手が届かず、何を諦めているのかを見ないまま、生活世界を切り取る目を曇らせている、そこの教授、あなたの方です!」
完璧な論破。
スタジオは水を打ったような静寂に包まれ、数秒の空白の後、パネラーの一人であるママ・タレントが思わず「……すごい、かなり分かりやすい」と呟いた。
それを皮切りに、スタジオ内でパラパラと拍手が起こり、やがてそれは大きな拍手へと変わった。
「う、ううむ……」
完全に論破された教授は、ハンカチで顔の汗を拭いながら俯くしかなかった。
「以上! 完璧のペキ太郎でした!」
ペキ太郎はスーツの襟を正し、カメラに向かって完璧な一礼をすると、ADが誘導するよりも早く、自らの足で颯爽とスタジオの裏へと消えていった。
残されたMCは、まだ興奮冷めやらぬ様子でカメラに向き直る。
「えー……放送事故かと思われましたが……これ以上ないほど完璧な解説でしたね。それでは続いてのお天気コーナーです」
去り際に現れた、板垣退助みたいな老人
ペキ太郎という嵐が去り、スタジオには奇妙な熱気と疲労感が漂っていた。
「え、えー……気を取り直して、続いてはお天気コーナーです。お天気キャスターの……」
MCのアナウンサーが進行ボードに目を落とし、なんとか番組を本来の軌道に戻そうとした、その時だった。
「わしからも、いいかな」
渋く、しかしスタジオの隅々までよく通る声が響いた。
声の主が立つお天気ボードの前に、カメラがスッと向けられる。
そこに立っていたのは、立派なカイゼル髭を蓄え、威厳あるフロックコートに身を包んだ一人の老人だった。
その風貌は、歴史の教科書からそのまま抜け出してきたかのような、「まんま板垣退助」であった。
「な、なんだ!? また不審者か!」
「警備員! 警備員呼んで!」
再びパニックに陥るADたち。MCも今度こそ限界とばかりに「CM! CM行ってください!」と叫ぼうとした。
しかし、またしても天井のスピーカーからプロデューサーのダミ声が轟いた。
『待て! 視聴率がさらに爆上がりしてる! 面白い、その板垣退助も喋らせろ!!』
「プ、プロデューサー! いくらなんでもガバガバすぎますってこの局!」
『いいからカメラ止めんな! 爺さん抜いて!』
プロデューサーの無茶苦茶な指示により、再び赤ランプの点灯したカメラが「まんま板垣退助」な老人をどアップで捉える。
老人は立派な髭をゆっくりと撫でつけると、カメラのレンズを真っ直ぐに見据え、深い慈愛と厳しさを込めた声で語りかけた。
師匠、まさかのコンプライアンス回収
「全国の皆の衆。よく聞いてほしい。テレビ局に勝手に入ってはいけない。生放送に乱入してはいけません」
スタジオ中が息を呑んで次の言葉を待つ。さっきのような、経済学と社会学を揺るがす大演説が始まるのか——。
「これは普通に極悪な犯罪です。あやつの真似をしてはいかんぞい」
ド直球すぎるコンプライアンス注意喚起だった。
あまりにも正論、あまりにも常識的な言葉に、論破されて俯いていた経済学教授すら「えっ、そんだけ?」という顔で顔を上げた。
「あ、あの……」
MCのアナウンサーが、戸惑いながらもマイクを向ける。
「あなたは、一体……?」
老人はふっと口角を上げ、自慢の髭をもう一度撫でた。
「あやつの祖父にして師匠じゃよ」
「師匠……!」
「いまはただの老兵じゃがな。さて、言いたいことも言ったし、老兵は去るとしよう」
老人はくるりと背を向け、スタジオの出口へと歩き出しながら、肩越しにポツリと言った。
「老兵は死なず、ただ退くのみ……『退助』だけにな。ほーほっほっほ」
ダジャレであった。
板垣退助の風貌でマッカーサーの名言を引き合いに出し、自身の名前にかけた高度なのか低空飛行なのかわからないギャグを残し、謎の老人は「ほーほっほ」と響き渡る笑い声とともに、スタジオの暗がりへと消えていった。
「…………」
「…………」
自身の見せ場であるお天気コーナーの出鼻を大きくくじかれたお天気キャスターは、引きつった笑顔で虚空をながめ立ち尽くしていた。