東大現代文の模範解答が割れるなら、問題は設問設計にある
大手予備校のプロが一致できない問題を、受験生に課してよいのか
東大二次試験の現代文では、大手予備校の模範解答が大きく異なることがある。
もちろん、表現が違うだけなら問題はない。同じ内容を別の言葉で書いている。同じ骨子を違う順序でまとめている。本文中の同じ根拠を、別の文体で答案化している。その程度の違いなら、記述式問題では当然起こる。
しかし、問題はそこではない。
問題は、解答のコアそのものが割れる場合である。
どの要素を中心に置くのか。
傍線部を本文全体のどの流れの中で読むのか。
設問が求めているのは理由説明なのか、内容説明なのか、概念の言い換えなのか。
本文中のどこを主要根拠として答案を構成するのか。
筆者の論理のどの部分を解答の中核として取り出すのか。
ここが予備校間で大きく異なるなら、それは単なる表現差ではない。答案の骨格が割れているのである。
しかも、その解答を作っているのは素人ではない。
大手予備校の現代文講師は、何十年も大学受験国語に携わってきたプロである。本文読解、設問分析、答案作成、採点基準の推定、過去問研究について、受験生よりはるかに多くの経験と技術を持っている。個人が思いつきで書いているわけでもない。複数の講師が集まり、本文を読み、設問を検討し、答案を練り上げている。
そのプロたちの答案が割れる。
これは重い。
受験生の答案が割れるだけなら、「受験生の読解力が足りない」と言えるかもしれない。
一人の講師だけが変な答案を出すなら、「その講師の読みがずれている」と言えるかもしれない。
しかし、大手予備校のプロたちが、それぞれ本文を読み、設問を分析し、話し合い、答案を作った結果として、解答のコアが割れるなら、問題は解答者側だけにあるとは言えない。
そこまで割れるなら、疑うべきは受験生ではない。
設問である。
ここで誤解してはいけない。
これは、作問者の国語能力が低いという話ではない。作問者が素材文を読めていないという話でもない。東大の現代文を作問する側が、素材文の主題や論理展開を理解していないとは考えにくい。おそらく、本文の理解そのものは十分にできているのだろう。
問題は、素材文の理解ではない。
問題は、作問における条件設定である。
素材文を深く理解していることと、よい設問を作ることは同じではない。
作問者が本文を理解していても、その理解を受験生にどう問うのか、その設問条件の設定に失敗すれば、入試問題としては不安定になる。本文の論理を理解していることと、受験生が制限時間内にその論理のどの部分を取り出せばよいのかを明確に示すことは、別の仕事である。
現代文の記述問題では、本文そのものに複数の読み筋が含まれていることがある。高度な文章であればあるほど、語句の関係、文脈の取り方、抽象度の上げ方によって、答案の組み立て方に幅が生まれる。
だからこそ、入試問題として出すなら、設問がその幅を適切に限定しなければならない。
どの箇所を根拠にするのか。
傍線部のどの側面を説明させるのか。
本文全体のどの対比を踏まえさせるのか。
どの語句の意味を開かせるのか。
どの論理関係を答案に反映させるのか。
これらが設問によって十分に条件づけられていれば、解答の表現は異なっても、コアは大きくは割れない。
ところが、設問の条件設定が曖昧な場合、解答作成者は、本文だけでなく、設問そのものを恣意的に補って読まざるを得なくなる。
ここが批判の核心である。
本文が難しいからいけないのではない。
素材文が抽象的だからいけないのでもない。
作問者が本文を理解していないからいけないのでもない。
設問が、答案作成に必要な条件を十分に指定していないことが問題なのである。
受験生は、本来、本文を読んで設問に答えるべきである。
しかし設問が曖昧な場合、受験生は本文を読むだけでは足りなくなる。
この設問は、どの箇所を中心に答えさせたいのか。
この傍線部は、直前直後を見ればよいのか、本文全体の主題に戻すべきなのか。
この問いは、理由を問うているのか、構造を問うているのか、語句の意味を展開させたいのか。
大学側は、どの読み筋を想定しているのか。
こうしたことを推定しなければならなくなる。
つまり、受験生は本文読解だけでなく、作問者の設問意図の推測ゲームに参加させられることになる。
これはおかしい。
入試問題は、出題者の内心を当てる競技ではない。
設問文と本文から、求められている解答が十分に導けるように設計されていなければならない。
大手予備校の解答が割れるということは、まさにこの設問解釈の余白が大きすぎることを示している。
予備校講師たちは、本文が読めていないわけではない。
本文中の根拠を拾えないわけでもない。
受験生より読解力が低いわけでもない。
むしろ、本文を読めるからこそ、複数の可能な読み筋が見えてしまうのである。そして設問が、その複数の読み筋のうちどれを要求しているのかを十分に限定していない場合、それぞれの予備校が、設問に対して別々の補助線を引かざるを得なくなる。
その結果、表現差ではなく、解答のコアが変わる。
これは、解答者が勝手に読んでいるのではない。
設問が、勝手に補って読まなければ答案を作れない形になっているのである。
ここを曖昧にしてはいけない。
東大現代文の問題点は、「現代文は奥深い」という話ではない。
「高度な文章を点数化するのは難しい」という一般論でもない。
「読解には多様性がある」という美しい話でもない。
そんな結論に逃げると、批判の焦点がぼやける。
問題はもっと制度的で、具体的である。
高倍率の選抜試験において、設問が要求条件を十分に限定していないまま、受験生に記述答案を書かせ、点数化して合否に使っていることが問題なのである。
現代文にも、明らかに悪い答案はある。
本文に根拠がない答案。
設問に答えていない答案。
筆者の主張を自分の意見にすり替えた答案。
傍線部だけを見て、本文全体の論理を無視した答案。
こうした答案を低く評価することはできる。
しかし、「悪い答案を排除できる」ことと、「よい答案のコアが一つに安定する」ことは別である。
入試問題として重要なのは後者である。
複数の妥当な答案が成立し、それぞれ本文上の根拠を持ち、しかも大手予備校のプロがその読みを採用している。それにもかかわらず、大学側の採点基準では一方向の答案だけが高く評価されるのだとすれば、それは選抜試験として危うい。
なぜなら、その場合、受験生の点数は「本文を読めたか」だけでは決まらないからである。
本文を読めていても、設問の要求方向を大学側と同じように補えなければ失点する。
妥当な読みをしていても、作問者の想定した答案のコアに寄らなければ点にならない。
別の予備校なら模範解答になりうる答案が、大学の採点基準では低く評価される可能性がある。
これは、受験生にとって過酷というより、不公正である。
大学入試は文学研究会ではない。
自由な読解の発表会でもない。
限られた時間の中で答案を書かせ、それを点数化し、合否を決める制度である。
制度である以上、読解の深さだけでなく、評価の安定性が必要である。
大手予備校のプロが複数人で練り上げても解答のコアが割れる問題を、十代の受験生一人に本番の短時間で解かせる。それで合否に使う。これは、制度としてかなり問題がある。
だから改革が必要である。
第一に、設問文は、解答に必要な操作をもっと明確に示すべきである。
「どういうことか」とだけ問うのではなく、必要に応じて、どの対比、どの理由、どの文脈、どの概念関係を説明させるのかを、設問の中で限定すべきである。高度な読解を求めることと、設問を曖昧にすることは同じではない。
第二に、大学側は、採点基準の中核をもっと明示すべきである。
完全な模範解答を一つ示すだけでは足りない。どの要素が必須なのか、どの要素は許容されるのか、どの方向の答案はなぜ不可なのかを示さなければ、記述問題の検証可能性は上がらない。
第三に、複数の妥当な答案がありうる問題では、その幅を採点基準に組み込むべきである。
本文上の根拠があり、設問に応答しており、筆者の論理から外れていない答案については、一つの想定解だけに無理に寄せるのではなく、複数の妥当解として評価できるように設計すべきである。
第四に、もし複数の妥当解を採点できないなら、その設問は高 stakes な選抜試験には出すべきではない。
これは厳しく言うべきである。
作問者が深い文章を選び、深い問いを立てたい気持ちはわかる。だが、深い問いを立てることと、採点可能な問いを立てることは違う。大学入試に出す以上、採点可能性と評価の安定性を犠牲にしてはならない。
東大現代文の模範解答が大手予備校間で割れるという現象は、受験生の未熟さを示しているのではない。
それは、設問の条件設定が、受験生に求める解答操作を十分に限定できていないことを示している。
批判すべきは、作問者の読解力ではない。
批判すべきは、作問の設計である。
素材文を読めることと、入試問題として安定した設問を作ることは違う。
本文を深く理解していることと、受験生が本文と設問から到達可能な解答条件を設定できることは違う。
よい文章を選ぶことと、よい試験問題を作ることは違う。
ここを混同してはいけない。
東大現代文が本当に高度な読解力を問いたいなら、設問はもっと精密でなければならない。
もし設問を精密にすると問いが浅くなるというなら、その形式は選抜試験に向いていない。
もし複数の妥当解を認めるなら、その幅を採点基準として公開できなければならない。
もしそれができないなら、少なくともその問題は、合否を左右する高得点配点の記述問題としては不適切である。
これは東大批判というより、入試制度への改革提言である。
大手予備校のプロが一致できない設問を、受験生にだけ正確に読み取らせる制度はおかしい。
作問者の頭の中にだけある要求条件を、受験生に推測させる入試はおかしい。
解答のコアが割れるほど条件設定の甘い設問を、読解力測定の名のもとに点数化するのはおかしい。
東大現代文に必要なのは、権威の擁護ではない。
必要なのは、設問条件の明確化、採点基準の透明化、妥当解の幅の明示、そして問題設計の検証である。
現代文の読解が奥深いことは、誰でも知っている。
だからこそ、選抜試験として使うなら、その奥深さを曖昧な設問に逃がしてはいけない。
奥深い文章を扱うなら、なおさら設問は精密でなければならない。
深い読解力を問うなら、なおさら採点基準は検証可能でなければならない。
受験生の人生を左右するなら、なおさら出題者の意図を当てるゲームにしてはならない。
ここが、東大現代文の模範解答が割れる問題の核心である。