グローバル化という言葉は、ふつう、モノ・カネ・人・情報が国境を越えて移動する現象として説明される。

企業が海外に工場を移す。
外国の商品が国内に入ってくる。
移民や外国人労働者が増える。
インターネットによって世界中の人が同じ情報に接続する。

たしかに、それはグローバル化の一面である。

しかし、もう少し深いところで見ると、グローバル化とは、単に国境を越える動きが増えることではない。
それは、国民国家が自国民に与えてきた生活保障の一部を、世界市場の側に明け渡していく過程でもある。

先進的な国民国家が与えていた生活保障

近代以降の先進的な国民国家は、単なる行政機構ではなかった。
そこでは、人々は「国民」として教育制度に包み込まれ、雇用慣行に包み込まれ、医療制度、社会保障、治安、インフラ、通貨、法制度の中で生活してきた。

つまり、国民国家は、人々を世界市場にむき出しの個人として放り出していたわけではない。
むしろ、国民という資格を与え、その内部に生活の足場を作り、外部の市場競争から一定程度守っていた。

この意味で、先進的な国民国家に生まれることは、それ自体が一つの生活保障だった。

ここでいう「無条件の恩恵」とは、個人の能力や努力とは別に、先進的な国民国家の内部に生まれ、その制度の中で生活しているだけで受け取っていた生活条件の底上げを指す。

個人が特別に優秀でなくても、その国の中で教育を受け、その国の企業で働き、その国の社会制度の中で暮らすことによって、世界的に見ればかなり高い生活水準を得ることができた。
それは本人の努力や能力だけの結果ではない。もちろん、個人の努力が無意味だったということではない。しかし、その努力が一定の生活に結びつくためには、国家が作り上げた制度的な環境が必要だった。

高い賃金。
安定した通貨。
清潔な水道。
治安のよい街。
学校教育。
医療制度。
道路や鉄道。
雇用慣行。
年金や社会保障。

こうしたものは、個人が一人で作ったものではない。
長い時間をかけて、国民国家が蓄積してきた社会的な資産である。

「国ガチャ」という言葉が示しているもの

俗な言い方をすれば、これは「国ガチャ」の恩恵だった。

ただし、「国ガチャ」という言葉は、単なる運の話ではない。
それは、国民国家によって生活条件がどれほど大きく配分されていたかを、乱暴ではあるが鋭く言い当てている。

どの国に生まれるか。
どの言語圏に生まれるか。
どの教育制度の中に入るか。
どの通貨で賃金を受け取るか。
どの社会保障制度に守られるか。

これらは、個人の能力以前に、その人の人生の条件を大きく左右してきた。

先進的な国民国家の内部で暮らす人々は、自分の生活水準を、しばしば自分の努力や能力の結果として感じる。
もちろん、その感じ方には真実もある。働き、学び、家族を支え、生活を組み立ててきたのは本人である。

しかし同時に、その生活は、国家という巨大な制度的土台の上に成立していた。

自分が優秀だから水道水が飲めるわけではない。
自分が努力したから道路が整備されているわけではない。
自分の能力だけで治安が維持されているわけではない。
自分の市場価値だけで医療制度や学校制度が存在しているわけではない。

人は、自分の能力だけで生活しているのではない。
人は、ある社会の中に生まれ、その社会の制度に支えられて生活している。

ここに、国民国家の大きな意味があった。

世界市場に接続される生活条件

ところがグローバル化は、この構造を少しずつ変えていく。

国民国家の内部に閉じられていた労働市場は、世界市場と接続される。
国内の賃金は、国内の事情だけで決まらなくなる。
企業は、自国民だけを労働力として見る必要がなくなる。
商品も、サービスも、資本も、情報も、国境を越えて動くようになる。

その結果、かつては国民国家の制度に包摂されることで守られていた生活条件が、世界規模の比較の中に置かれるようになる。

これは、ある意味では平等化である。

途上国に生まれた能力ある人々が、世界市場に接続しやすくなる。
国境や地域の制約によって閉じ込められていた才能が、インターネットや英語や技術によって外に出ていくことができる。
かつてなら、生まれた国の経済水準によって低く評価されていた人々が、世界の中で能力を示すことができるようになる。

これは、たしかに一つの解放である。

しかし、別の側から見れば、それは先進的な国民国家の内部にいた人々にとって、保護膜が薄くなることでもある。

かつては、特別に高い能力がなくても、先進的な国民国家の中に生まれ、その制度の中で働いていれば、世界的に見てかなり高い生活水準を得られた。
しかし、グローバル化が進むと、その生活水準は以前ほど自動的には保障されなくなる。

人々は「国民」としてだけではなく、世界市場の中の労働力として、人的資本として、スキルの束として見られるようになる。

ここで起きているのは、単なる賃金低下ではない。
より本質的には、国民としての包摂から、市場における比較可能な個人への移行である。

国民としての包摂から、比較可能な個人へ

これは非常に大きな変化である。

国民国家の内部では、人はまず「国民」だった。
その人が高技能か低技能か、稼げるか稼げないか以前に、同じ社会の成員として教育を受け、医療を受け、治安やインフラを享受し、一定の生活保障の中に置かれていた。

もちろん、その内部にも格差はあった。
階級も、地域差も、教育格差もあった。
国民国家は決して完全な平等空間ではなかった。

それでも、国民国家は人々を完全な市場競争からはある程度守っていた。
人は単なる労働力ではなく、国民であり、住民であり、生活者だった。

しかし、グローバル化が進むと、その包摂の力が弱くなる。
人は次第に、どこの国の人間かよりも、どんな能力を持っているか、どんな言語を使えるか、どんな技能を売れるか、どれだけ移動可能かによって評価される。

これは、一見すると公正に見える。
生まれた国ではなく、能力によって評価されるのだから。

しかし、その公正さは、必ずしも人間に優しいものではない。

なぜなら、それは福祉的な平等ではなく、市場にさらされる平等だからである。

国籍による不平等が薄くなる。
そのかわりに、個人能力、教育、言語資本、情報環境、移動可能性、金融資本による不平等がむき出しになる。

国民国家が作っていた生活の緩衝材が薄くなると、人間はより直接的に市場価値で測られるようになる。
それは、ある人にとっては解放であり、別の人にとっては転落である。

これは弱者を笑う話ではない

ここで注意しなければならないのは、この話は、能力の低い人間を笑う話ではないということだ。

むしろ逆である。

この問題の核心は、個人を能力順に並べることではない。
そうではなく、国家や共同体が人間を市場から守る力を失ったとき、弱い人間はどこで生活の尊厳を保てるのかという問いである。

人間には能力差がある。
体力にも、知力にも、健康にも、環境にも、家族にも、教育機会にも差がある。
その差を完全になくすことはできない。

だからこそ、国民国家は、人間を能力だけで放置しないための装置でもあった。
学校、医療、福祉、雇用、地域社会、公共インフラ。
それらは、人間を市場価値だけで測らないための仕組みでもあった。

グローバル化によって問われているのは、この仕組みの限界である。

世界全体で見れば、国籍による極端な生活条件の差が縮まることには意味がある。
途上国に生まれた有能な人々が、国境によって閉じ込められずに力を発揮できることにも大きな意味がある。

だが同時に、先進的な国民国家の内部にいた人々が、それまで国家によって守られていた生活条件を失っていくなら、その痛みもまた現実である。

冷たい平等としてのグローバル化

ここに、グローバル化の難しさがある。

グローバル化は、単純に悪ではない。
しかし、単純に善でもない。

それは、国籍によって閉じ込められていた人々を解放する。
その一方で、国籍によって守られていた人々を市場にさらす。

それは、世界を少し平等にするかもしれない。
しかしその平等は、温かい平等ではなく、冷たい平等である。

国民国家の内部では、人は「われわれ」の一員として扱われていた。
だが世界市場の中では、人は「比較可能な個人」として扱われる。

この違いは大きい。

「われわれ」の一員であるなら、能力が低くても、年を取っても、病気になっても、何らかの形で支えられる理由がある。
しかし「比較可能な個人」として見られるなら、その人の価値は、市場でどれだけ交換可能かによって測られやすくなる。

このとき、失われるのは単なる賃金ではない。
人間が、共同体の成員としてではなく、市場価値を持つ存在として評価されるようになる。
そのこと自体が、人間の尊厳を揺さぶる。

だから、グローバル化を考えるとき、本当に問うべきなのは、「能力のある人間が勝つのは当然か」という話ではない。

そうではなく、

国民国家が与えていた生活保障を失ったあと、人間はどのようにして市場価値だけではない尊厳を保てるのか。

この問いである。

国民国家が果たしてきた役割を見直す

先進的な国民国家は、これまで人々に見えない下駄を履かせていた。
その下駄は、不公平でもあった。
なぜなら、生まれた国によって生活条件が大きく違っていたからである。

しかし、その下駄は、同時に保護でもあった。
なぜなら、国民国家の内部にいる人々を、世界市場のむき出しの比較から守っていたからである。

グローバル化とは、この下駄を少しずつ外していく過程である。

それは、公正に見える。
しかし、冷酷でもある。

国籍による恩恵が薄まり、個人の能力がより直接的に問われる社会。
それは、能力ある人にとっては開かれた社会である。
しかし、弱い人にとっては、逃げ場の少ない社会でもある。

だからこそ、今必要なのは、グローバル化をただ歓迎することでも、ただ拒絶することでもない。

必要なのは、国民国家がこれまで果たしてきた役割を、もう一度見直すことである。

国民国家は、閉鎖的で排他的な装置であるだけではなかった。
それは、人間を市場から守る生活の器でもあった。

その器が揺らぐ時代に、私たちは何を守り、何を開き、どこに新しい連帯を作るのか。
グローバル化の本当の問題は、そこにある。